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『人情酒場』

「オマエよぉ!人の店で吐きやがって!どう弁償してくれるんだ!」
 新規開店したばかりの飲み屋から店主の罵声が聞こえてきた。恐らくあそこの店の中は吐瀉物とアルコールの匂いで充満していることだろう。他の客は酔いも一気に覚めていそいそと帰り支度を始めていることだろう。気の毒に店は開店したばかりだからいきなりこういう事故が起こったらたまったものではない。まだ店主も若いから吐いた客への怒りを抑えられなかったのだろう。他の店まで彼の罵声が響いている。

 そんな罵声が聞こえる中、その店から二軒となりの居酒屋『人情酒場』の客は「あの兄さんもせっかく店を持ったのにいきなりこれじゃたまらんな」とカウンター越しに女将にひっついて喋っていた。「そこへいくとここはやっぱり居心地いいねえ!旨い酒、気の利いたおつまみ、そしてべっぴんの女将がいるときたらもうたまりませんなぁ!」
「よぉ、タコ爺!相変わらずカウンターに這いつくばってよぉ!女将をまだ諦めらんねえのか!」
 カウンターにいるのはこの『人情酒場』の常連客である通称タコ爺。『人情酒場』での彼のあだ名である。酔うとタコみたいに赤くなるから他の客たちにつけられたのである。しがないサラリーマンであるがこの酒場では一番の古株である。後ろで彼を囃し立てている連中も常連客である。
 この酒場の客は基本的に彼らが中心だ。たまに新参の客も現れるが、この『人情酒場』のよそ者を受け付けない雰囲気に耐えられず、殆ど一見さんで終わってしまう。そして、そんな彼らに酒を振る舞っているのが、この若き女将である。
 ここの常連客たちはこの女将の魅力にすっかりやられていた。落ち着いてはいるが、しかし透き通るような肌をして、それが切れ長の目を引き立たせる。そして割烹着の袖をたくし上げビールなんぞを持つその仕草。ビール瓶を握る女将の妙に艷やかな手に、ビール瓶の水滴が落ちて光っているのを見ると、妙にムラムラしたものを感じ、彼らは下を向いて思わず自分を叱り飛ばしたくなってしまうのだ。
 しかし不思議な女将である。若いといってもあくまで見てくれの話であり、実際の所女将の年齢がいくつなのか常連客でさえ分からない。二十代にも見えるし、人生を知り尽くした女性に見える時もある。常連客は女将の年齢を勝手に想像し、ときたまあらぬ妄想を膨らませていたが、しかし誰も女将に実際の年齢を問う勇気はなかった。
 タコ爺が女将を見た。女将はタコ爺のいつになく真剣な表情が気になり「何です?」と問うた。するとタコ爺はそのまま女将を見つめ黙っていたが、いきなりコップの中のビールを一気飲みして女将に言った。
「女将!今日こそ聞きてえ事がある!アンタ、年は幾つなんだい!」

 タコ爺の突然の質問に店内はざわめき、テーブル席の連中は慌てて「おい、タコ爺!もう酔っ払ったか!」とタコ爺を怒鳴りつける。しかしタコ爺は「ああ!酔っ払ってるよ!酔っ払ってるから聞いてるんだろ!オメエ達だって知りてえじゃねえか!」と言ってみんなを黙らせてしまった。みんなが黙ってしまったのはやはりみんな女将の実年齢を知りたいからである。若く見えるくせに妙に自分らと話の合う女。それどころかときたまお袋みたいな口を聞く女である。女将との話の節々から尋常でないぐらい人生経験を積んでいるのはわかっている。みんな一斉に女将を見る。あんた一体幾つなんだいいい加減教えてくれてもいいじゃないか。女将は「あらいやね!女性に歳を聞くもんじゃないですよ!」と言って流そうとしたが、タコ爺は一歩も引かずまた女将を問い詰める。
「そういや、オイラがここに通い始めたのは十年ぐらい前だけど、女将はあの頃と全然変わっちゃいねえ!どんなに若作りしても十年前とまるっきり変わらねえってのはおかしいじゃねえか!そういやこの店だってそうさ!十年前から全く変わっちゃいねえ!酒の種類だって十年前とまるっきり変わらねえ!とっくに販売終了しているやつだってここにくりゃ飲めるんだ!女に年齢を聞くなんざオイラもデリカシーがたらねえぜ!年齢は聞かねえよ!だからあんたがいつこの店を始めたのかは教えて欲しい!」

 タコ爺の執拗な追及に半ば呆れた女将であったが、周りを見ると他の常連客も興味深々で自分を見つめてるではないか。女将はとうとう観念し、自分の過去を話しはじめた。
「私がこの店を始めたのは第二次世界大戦前の日中戦争の頃なんですよ。あなた達も歴史の授業で習ったでしょ。私の家は貧しくて私は東京に出稼ぎに来たんですよ。当時は戦争中だったけどまだ景気がよくてね。中国に行く人は支那で稼いでくるって!勢いよく中国に出かけて言ったものですよ。私も女中とかやってたんですけど、ちょっと小銭が溜まりましてね。そこで自分の店を持とうって思ってここに店を構えたんです。そして開店の日に一番できたのが今度中国に異動するっていう軍人さんでね。私は初めてのお客さんだから大事に接したんですよ。そしたらそのお客さんそれから毎日くるようになって、ある日私の手を握って「支那に行く前にどうしても伝えたいことがある」って言って私に告白してきたんですよ。私もこのお客さんにいつのまにか惚れちまってたから涙を流して告白を受け入れました。その日は店を早めに閉めて二人で一晩中夜の隅田川を見ていましたよ。ホントにあの頃は若かったわ!それから軍人さんは中国に行くことになったんだけどその時軍人さんと私は誓ったんですよ。中国から帰ってきたら結婚しようって!だけど……だけどあの人は!」

 女将はそこで話を止め、周りを見た。タコ爺達は皆口をあんぐり開け、もう顎が外れそうである。女将はフフッと悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。
「まぁ、みんな冗談なんですけどね!」


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