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複数買い

 デビュー作の発売日、僕は朝一から近所の開店前の本屋にいた。開店して一番に本屋の中に入った僕が見たのは入り口付近に平積みになっている派手な色彩の本だった。その本は出版社から送られてきた見本と全く一緒だ。ああ!これは現実なのか?自分の本が出版され、こうして人目につくところに何冊も置かれているなんて!僕は喜びのあまり四冊ぐらい持ってレジに出した。するとレジの店員が厳しい顔で僕に言うではないか。

「すみません。本が置いてある場所の下に複数買い禁止の張り紙があるのを見てませんか?この本は大変人気がありまして転売を防ぐためにお一人様一冊という事になっています。申し訳ありませんが、一冊だけの購入にしてもらいませんでしょうか?」

 僕は信じられない奇跡に思わず気を失いそうになった。まさかこんなにも僕のデビュー作が売れているとは。今僕の後ろに行列が並んでいるが、みんな僕の本を手に取っている。しかも並んでいる人はみんな女性だ。僕の本が置いてあった場所にも女の子がいて恨めしそうに僕らを見ている。一人の女性が僕の元に歩いてきて涙目でうったえてきた。

「あなたその本ひとりじめにするのやめてください。私はずっと本が出るの待ってだんだから!」

 いいんだよ!そんなに泣かなくてもいつだってあげるよ。君みたいな可愛い女の子ならタダであげてもいい。さあどうぞ!この本を書いた僕の汗と油が染み込んだとっておきの本だよ。女の子は感激して僕に向かって礼を言ってきたが、その時彼女は僕の正体に気づいてしまったようだ。彼女は僕をじっと見てまさかあなたはこの本を書いた人?と聞いてくる。そうだよと僕は微笑む。彼女は僕の手を握って二人きりであなたの本を読みたいという。そんな場所はひとつしかない。僕は彼女の手を握って彼女を陽の差す街へと連れて行く。


 しかしこんなのはただの夢物語にすぎない。無名の新人のデビュー作がこんなにも注目されることはほとんど無い。大半のデビュー作なんてのは小型の書店にはほぼ置かれず、大手書店の隅っこにただのお情けで置かれるだけだ。夢から覚めた僕はこの現状を悲しんだが、しかし僕はそれ以前に作家デビューさえしていなかった。

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