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愛妻物語

 後ろからすすり泣く声が聞こえるなか、平次は目を瞑り遺影に向かって静かに合掌していた。遺影の中には在りし日の妻の富子の優しい表情が写っている。この遺影は十年ほど前に富子が近所の写真屋で撮ったもので、写真を気に入った富子は、この写真をぜひ遺影にして欲しいと平次にお願いしていたものだった。


 平次と富子が結婚したのは49年前であった。銀行に勤めていた平次は偶然入った喫茶店で売り子をやっていた富子にたまたま出会い、そして一目惚れしたのだ。一目惚れした平次は仕事が終わると毎日喫茶店に通い詰め、二言三言話す関係になったとき、勇気を出して富子に告白したのだ。「お恥ずかしいことだが僕はあなたに惚れてしまった。僕と付き合っていただけないだろうか」富子は平次の真剣そのものの眼差しを見、心を動かされる者があったが、しかしエリート銀行員の平次と、孤児院育ちで喫茶店の売り子をやっている自分とはあまりに身分が違うので、正直にあなたとはあまりに身分が違う、私なんかと付き合ったらあなたには不幸が起こる、と言って断わろうとした。しか平次はそれでもいい、愛に身分なんて関係ないんだ。と熱く富子を説得して親の反対を押し切って無理やり結婚したのだった。
 そうして結婚した平次と富子であったが、結婚生活は平穏無事とはいかなかった。故郷の名士であった平次の親は、こんな男を何人も作っているような売女と結婚するような奴は息子と認めんと、勘当を宣告し、それを平次から聞かされた富子は責任を感じたのか、二年に一回半年ほど家を出るようになった。さらに富子は死んだと思っていた両親が見つかったけど両親が金に困っていると言って泣きながらお金をせびることがあった。平次はそれを聞いて富子の両親に会いたくなったが、しかし富子はあなたのようなエリートとはとても会わせられるような人たちではありません。と言って頑として断った。しかし平次はその富子の言葉に納得出来ず、ご両親に会わせて欲しいと説得したが、富子の意志は固く、とうとう根負けした平次は富子の両親に会うのを諦めたのである。
 また、ある時など平次と富子が散歩している時に富子を見つめる視線に出くわしたことがある。それに気づいた平次が何奴目とばかりにキッと睨みつけると、そこに金の鎖をジャラジャラつけた男と、三人の子供がいたのであった。その日家に帰るなり富子は正座をし深く頭を下げて言った。
「あの人は昔別れた男です。子供までいるのに未練たらしく私を追いかけ回しているのです。あなた警察に通報したいのはやまやまでしょうが、警察に通報したら最後、奴はあなたの勤務先に私との関係を吹聴するかもしれません。私がなんとかお金を工面して黙らせます!あなた明日から私働きます!昔みたいに水商売でもなんでもやってお金を払いますから、あなた心配しないで下さい!」
 富子はこういった途端号泣してしまった。平次は事の真相に驚いたが、愛する妻にそんなことをさせるわけにはいかないと、口座から多額の現金を引き出し富子にこれを奴に払えと言ったのである。
 二人には結局子供は出来なかったが、それでも二人は幸せであった。平次は散歩中にふと富子に聞いたことがある。「子供ほしかったかい?」と。すると富子は目に薄っすらと涙を浮かべて独り言のようにつぶやいた。「子供ねえ……一度この手で抱きしめたかったわ」


 平次の後ろですすり泣く声がだんだん大きくなっていった。それでも平次は富子の遺影に前で目を瞑り手を合わせたまま微動だにしない。しかし次の言葉を聞いた途端平次は目を開けハッと後ろを振り返った。
「おふくろ!ようやく親父と一緒になれるな!親父死ぬまで待ってたんだぞ!おふくろと一緒に過ごせるのを!おふくろ、アンタが金づるの銀行員と一緒に住むって事になったとき親父だって苦しんだんだ!ごめんよおふくろ、いくら金のためとはいえ、こんなナスの漬物みてえなやろうと一つ屋根の下に暮らすなんてよ!おふくろは家に帰って来るたんびに泣いてたもんな!『あんなナスの漬物みたいなやつと暮らすなんて本当だったら死ぬほど耐えられないけど、あなた達のために頑張るわって!』そういえばコイツが書いた婚姻届持ってきたことがあったよな。その時おふくろ婚姻届を親父と俺らの前で破ってくれたよな!その時親父と俺ら三人兄弟どれだけおふくろに感謝したか!おふくろ、今すぐオヤジの眠る場所に連れてってやるからな!50年ぶりに一緒になれるんだ!おいこら!ナス爺!いい加減そこどけやコラ!さっさとおふくろ返せ!」

 平次は唖然として後ろに座っている面々を見た。どれも見知らぬ人間であった。彼らは葬儀が始まると同時にいかつい老人の遺影を持って現れたのだ。彼らのうちの一人が富子の遺影を見て言った。
「いい顔してるな……おふくろ。これ親父と最後に撮った写真だぜ。俺らの前で親父と並んで撮ってよ。親父とお互いが死んだときはこの写真を遺影にしようねって約束したよな。今俺たちが二人の願い叶えてやるからな!」
 そして彼らは平次を突き飛ばし、富子の遺影の横にいかつい老人の遺影を置くと一斉に泣き出した。
「親父ー!おふくろー!」


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