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全身女優モエコ 第四部 第十回:華の乱

 しかしその時であった。大勢のお供を連れた三日月エリカが現れていきなりモエコの前の三人組をどかしてしまったのだ。モエコはこの三日月の行動に頭に来て注意した。

「三日月エリカ、何やってるのよ!あなた一番後に来たんだからモエコの後ろに並びなさいよ!それが芸能界のルールってものでしょ?」

 このモエコの発言にその場にいたものは一斉に凍りついた。若手ナンバーワンの人気女優にして父は財閥の御曹司であり、母は銀幕の大スター岸壁洋子である超サラブレッドである三日月に対して芸能関係者がたむろするこのスタジオで堂々と喧嘩を売ったのだ。私は稽古スタジオで起きた悪夢を思い出し顔が青くなった。やはりモエコと三日月を会わせてはならなかったのだ。すると三日月はモエコを無視して何故か私に向かって話しかけてきた。

「ねぇ、あなた。あの、ここはペット連れて来ちゃダメだったんじゃない?ましてや、あなたが連れて来てるのはペットじゃなくて家畜でしょ。あなたこんなうるさい家畜を連れてきてどうするつもりなの?早く養豚場に引き渡しなさいよ。こんなブサイクな家畜さっさと解体されればいいんだわ!」

 私はこれでもう終わりだと思った。ああ!三日月がもっと早く来ていればこんな事態は避けられたのに。怒りのモエコは誰にも止められない。私なんかじゃ無理だ。せめてみんな逃げろとみんなに向かって呼びかけようとしたが、しかしモエコは何故かブチ切れなかった。みるとモエコは両手で頬を摘んで懸命に自分を抑えていた。私は今あの時のモエコの自分の頬を力一杯摘んで自分を抑える姿に、彼女が死んだ後に連載がスタートした某バスケ漫画の名シーンを重ねて思った。

『いや……そうじゃねえ……アイツは全身女優になっちまったのさ……』

 三日月エリカは三人組の先に立つとすぐさま楽屋のドアを開けて中にいた女優を叩き出した。女優は三日月に何度も深く頭を下げて慌てて去った。どうやら彼女は海老島の愛人女優の一人であるらしかった。三日月は楽屋に入るなり異様に高い声で挨拶した。

「まぁ、叔父様いつもお元気で何よりですわ。でも、元気すぎて楽屋でおいたはいけませんことよ。大体なんですの、あのババアは!叔父様だったらあんな貧乏な女優よりもっとマシな女がいらっしゃってよ!」

「相変わらずエリ坊は毒がきついやね。お嬢ちゃんなのに言うわ言うわ。そんなとかぁお母さんそっくりだぜ。ところで洋子さんはまだパリかい?」

「そう、ママはずっとパリですわ。来年に帰ってくるんじゃないかしら。エリカ楽しみですわぁ!」

 三日月はそう言うとクルクルと回り出した。その三日月に向かって海老島は言った。

「そりゃ楽しみだぜ。なぁ洋子さんに俺が日本に帰ってきたら酒一緒に飲みたいって言ってたって伝えといてくれよ」

「まぁ、叔父様ったら、まだママを口説く気なの?呆れてしまうわ!エリカに取り継いでもママは絶対に叔父様に振り向きませんから!」

 海老島は三日月の言葉に笑ったが、すぐに真顔になって彼女にこう尋ねた。

「ところでエリ坊、お前火山モエコって事知ってるか?」

「叔父様、火山モエコがどうしたんですの?」

 三日月がこう答えると、海老島はいきなり扇子で床を叩いてこう怒鳴った。

「その火山モエコが挨拶にこねえんだよ!普通新人なら真っ先に俺に挨拶にくるもんだろうが!なのに今になっても挨拶にきやしねえ!畜生、人をバカにしゃがって!今日の撮影どうなるかわかってんだろうな!」

 三日月はそれを聞いていたずらっぽく微笑んで言った。

「ああ!叔父様をそんなに怒らせるなんて、その火山モエコってのはとんでもない女だわ!でも叔父様。エリカ、実は少しその火山モエコって女を知ってますの。いや、あれは女じゃなくて雌でしたわ。その火山モエコって雌は山に囲まれた肥溜めだらけの村で飼われていた豚なんですの。ホントならそのまま養豚場で焼肉にされていたはずなのに、何故か東京まで逃げ出したんですの!あの雌、ど田舎で初めて会ったエリカに向かって獣そのまんまの声を上げて襲ってきましたのよ。そして東京でまた会った時はエリカを殺そうとまでしましたのよ!叔父様お願い。エリカをこれ以上命の危険に晒さないで!叔父様のお力であの豚を肥溜めに沈めて!」

 三日月エリカの話はモエコに筒抜けであった。彼女は三日月の話を聞いて怒りのあまり身を震わせた。こんな屈辱を浴びて耐えられぬものか。モエコの怒りは火山のように激しく噴出した。私は楽屋に飛び込もうとするモエコの肩を掴んでやめろ!と叫んで抑えたが、モエコは私をボコボコにして強引に海老島と三日月のとこらに乱入した。

「誰がブタだって!三日月エリカ!今度という今度はもう許さないわ!お前なんかこうしてやる!」

 モエコらそう叫ぶと楽屋に置かれていた花束を手に取って三日月を殴りつけた。三日月も仕返しにと花束でモエコを殴りつけた。

「ブタだと言ったのが何が悪いの!お前は元々焼き豚になる予定だったじゃない!今すぐあのど田舎にかえりなさいよ!ドナドナドナドナでも聴いて泣きながら帰るといいんだわ!」

 火山モエコと三日月エリカ。この二人が花を手に持って叩き合う姿はまさに映画のワンシーンであった。彼女たち己の全てをかけて相手を叩きのめさんとしている。この後に女優として大輪の花を咲かせる二人が今互いの花びらを散らさんとして花束で懸命に相手をたたいている姿は圧倒的に美しかった。私も、騒ぎを聞いて集まったスタッフも、そして彼女たちによって自分の楽屋を荒らされている海老島さえ二人に見とれていた。

「この馬鹿野郎が!人の楽屋でなにやってんだ!」

 我に返った海老島はモエコと三日月に向かって怒鳴りつけた。その野太い声を聞いてモエコと三日月は花束を捨てて相手を睨みつけた。海老島はモエコの元にやってきて低い声で言った。

「お前か。火山モエコってのは。お前とんでもない事してくれたな?どうなるかわかってんだろうな?」

 モエコは海老島に答えない。ただ撫然とした表情でこの大俳優を睨みつけているだけだ。三日月は海老島のそばに寄るとモエコを指差して叫んだ。

「ああ、叔父様!この豚が火山モエコですわ!エリカと会う度にこうやって暴行を働いて来ますの!叔父様、早くこの豚を追い出して!養豚場にぶち込んで!」

 やはり事件は起こってしまった。モエコは事件起爆装置。事件は起こるべくして起こったのだり私はもう必死で土下座をして許しを請うしかなかった。

「海老島先生、三日月さん、大変申し訳ありませんでした!私、火山モエコのマネージャーを努めている猪狩と申します!火山モエコの代わりに私がお詫び申し上げます!この子はまだ田舎から出てきたばかりで礼儀作法も知らないのです!この子には後できっちりと言い聞かせますので今回は私に免じてお許しください!」

「バカじゃないのあなた!あなたなんかに謝られてもしょうがないのよ!そこでぼうっと突っ立ってる豚に謝らせなさいよ!最も謝ったところで芸能界は確実に追放ですけどね!エリカと叔父様の力を舐めるんじゃないわよ!アンタらなんか事務所ごと潰してやるんだから!」

「モエコ!お前も謝るんだ!今すぐ土下座して先生と三日月さんに頭を下げて心からお詫びするんだ!」

 私は必死だった。ああ!モエコのマネージャーになってから私は何回土下座しただろう。モエコが何か問題を起こすたびに私は床に頭をこすりつけて詫びたものだ。なぜ私はことあるごとにモエコのために謝り続けたのか。それは彼女が全身女優火山モエコだったからだ。その演技だけで何もかもを圧倒してしまう化け物のような才能。どんなものも沈黙させてしまう存在感。彼女を守るためなら大げさではなく死んでさえいいと私は思っていた。当時の私にモエコの才能は完全に把握できたといい難いが、それでも彼女の女優としての才能がとてつもないことはわかっていた。

 そのモエコが今腰をかがめて両膝をついた。私はモエコが初めて自分のいうことを聞いたと喜んだ。私は感動して一緒に謝ろうとモエコに目で合図を送った。謝れば海老島権三郎も三日月エリカも許してくれる、そう思った。しかしである。なんとモエコは両手をついて軽くお辞儀をしてさっき私が教えた挨拶をまんま述べたのである。

「海老島先生、お初にお目にかかります。私、新人女優の火山モエコと申します。女優としてまだまだひよっこの私ですが、本日はご指導御鞭撻よろしくお願い致します」

 これには私も、海老島も三日月も、そして事件を知って楽屋に駆け付けたプロデューサーをはじめとしたスタッフもみな呆然としていた。その場にいたものはみんなしばらく時が止まったように動かなかったが、やがて我に返った海老島が楽屋にいた全員に向かって大声でお前ら早く出ていけと怒鳴った。

 楽屋に無事にたどり着いた私たちを待っていたのはプロデューサーの罵声であった。なんであんなことをしたんだ!こともあろうに海老島先生のところで三日月エリカとバトルなんて!ああ!猛獣使いのこのプロデューサーでさえモエコは手におえなかった。どうしてくれるんだ!今すぐ謝りに行け!と彼は今までの余裕のある態度をかなぐり捨てて叫んだ。彼はモエコというわがまま少女を全く見誤っていたのだ。モエコは彼らの躾に大人しく従う猛獣ではなく全身女優という大火山であったのだ。モエコはプロデューサーの言葉に耳を貸さず、ただモエコは悪くない、三日月が全部悪い。大体あの海老島のジジイは何なのよ!自分の楽屋に共演者呼びつけて挨拶させるなんて自分をどんだけえらいと思ってるのよ!と叫び続けた。とうとうプロデューサーはその場にへたり込んで頭を抱えながら叫んだ。

「このドラマはもう終わりだ!」


 だが、これでドラマが終わるわけではなかった。というより三日月も、そして海老島も時間通りに撮影現場に現れたのである。海老島は撮影現場に現れるなりモエコをものすごい目で睨んだ。そして三日月はモエコのそばに近寄ってきてくると作り物の笑顔を満面に輝かせて挨拶してきた。

「まあ!あなたが私たちの新しいお仲間の火山モエコさんなの?初めまして私、三日月エリカって言うの。よろしくね!」


 これが当時週刊誌で取り上げられて話題になった火山モエコと三日月が海老島権三郎の楽屋で起こした乱闘事件の真相である。週刊誌はこの乱闘事件を『華の乱、人気女優Mと新人女優Kが大御所俳優Eの楽屋で花束で殴り合いの大乱闘!』と題している。しかしこの関係者が漏らしたらしいこの記事は非常に正確ではあるが、一つ誤りがあり、それはモエコが最後に海老島と三日月に対して謝罪したという所である。先に話したようにモエコは海老島と三日月に対して全く謝罪していない。モエコは謝罪という言葉自体が頭にないような人間だった。いつも演技ですべてを強引に解決させていた。ああ!モエコはその人生で何度演技してピンチを脱して来ただろう。モエコにとっては現実の有象無象などすべて演技で切り抜けてきた。彼女にとっては演技こそが現実であった。成功者の中には私は○○にならなかったら死んでいたかもしれないという人間がいる。その言葉は大方謙遜から、あるいは謙遜を装った自負心からくるものであろう。しかしモエコにとってはそれは全く事実であったのだ。私は女優でなかったモエコなど想像できない。彼女は生まれた時から女優であり、そしてそれ以外の何物でもなかったのだ。

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