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ラーメン食べたい

 ジョイスやプルーストは人間の意識の流れや無意識的記憶を小説に取り込んだが、別に彼らは人間の心理状態をリアルに書いたわけではない。ジョイスやプルーストはあくまで小説の方法として意識の流れや無意識的記憶を取り込んだわけであり、彼らの描く人間の心理はあくまで芸術として読まれ見られるためのものだ。私たちのような普通の人間はジョイスやプルーストのように改行なしの言葉の連なりのようにものは考えないし、彼らの小説ほど高尚な、あるいは芸術的なおかしみのあることなど語っているわけではない。私たちの考えることはもっと単純だ。確かにジョイスやプルーストのように長い事を考えることはある。だけどそれは単純な文の繰り返しであり、文字で表したらゾッとするほどつまらないものだ。

 今私は夫と土手にいた。これは毎週のルーティンワークみたいなもので家にいるのもなんだからと夫が言い出してからずっと続いている。あたりはだんだん陽が傾き始めている。もうすぐ夕方だ。夕方になったら夫はいつものように帰るぞと声をかけてくるだろう。私たちは結婚して一年になるが、なんというか、これが倦怠期といえばそうなのか。妙によそよそしくなった。夫は平日は仕事が終わると二言三言言ってすぐにシャワーを浴びてベッドに入ってしまう。私が寝室に入っても顔を上げてああとか相槌を打つなり手持ちのスマホに目線を戻してしまう。私もまたおんなじようなものだ。ベッドに入ると夫に背を向けてひたすらスマホをいじって夜を過ごす。今の二人も全く同じように自分のスマホをみて時間が過ぎるのを待っている。離婚した方がいいんじゃないかと不意に思うことがある。だけど離婚したところで将来はどうなるのか。こんな事を思うたびに私は頭を振って追い出そうとする。私は相変わらずスマホのゲームに夢中になっている夫を見た。夫は私との事をどう考えているんだろう。このままでいいなんて思っているのか。いや果たして何も考えていないのか。

 夫は私に比べて異常に本を読まない。そのことは結婚する前からわかっていたし、あの時はむしろそんな天真爛漫というか、バカというかそんなところが好きだった。だけど一緒に暮らすようになってそれなりに本を読む人間である私と全く本を読まない夫との価値観の相違がくっきりと現れてきた。喧嘩をする時も論理的にあなたのここが間違っていると問い詰める私に夫はいつも俺はバカだからわかんないよとか開き直り非論理的に私の事を嘲笑するのだった。ジョイスやプルーストは間違いなく夫みたいな人間を知らなかったであろう。彼らが相手にしていたのは教養ある知識人であり、こんな無知無教養な人間ではなかったからだ。私は夫の頭をこじ開けてこういう人間は一体どういう考えを持っているのか確かめたいと思った。ふと夫を見ると彼はいつのまにかスマホをしまって空を見ていた。私はそろそろ帰りかなと思って身支度を整えようとしたが、夫は黙って正面を向いたまま動かない。私は夫の見慣れぬ態度に動揺して思わず目を逸らした。

 妙な沈黙がそこにあった。夫は何も言わず正面の向かい側の土手を見て、私はその夫の反応をドキドキしながら伺っている。悪い想像が頭の中を行ったり来たりする。やっぱり彼は彼なりにとか、もしかして浮気相手がいたとか。それを今ここで告白するとでもいうのだろうか。そうだったとして彼はどういう心理状態で私にそれを伝えようとしているのか。彼は彼なりに単純な人間は単純なりに考えてはいるのだろう。その時夫が突然両腕を上げて大欠伸を始めた。欠伸が終わった後彼は私にピックさせてごめんと謝ってきた。なんだ。ただの眠気だったのか。

 空はオレンジになっていた。こうして一日が終わり、一週間が終わり、一ヶ月が終わり、一年が終わっていくのだろうか。夫とも毎日こんな不平不満を抱えながらずっと一緒に暮らしていくのだろうか。さっき私は時々離婚を思う時があると言った。だけどそう思うたびに離婚をしたらしたで一人でどうやって生きていけばいいのかと思い怖くなる。こんな夫でも、置物でも必要は必要なのだ。だけどそれで良いのだろうかとも考える。現実には維持に甘んじて結局本来あるべき将来をみすみすドブに捨てていいのだろうか。今私の頭はキャパシティを超えるぐらいの意識の流れや無意識的記憶に蹂躙されていた。ジョイスの夢、プルーストのマドレーヌ、そして私の離婚と将来。私はこれからどうすればいいのか。その時私は真顔で自分を食い入るように見つめている夫に気づいた。

「あ、ああ。どうしたの?」

「どうしたのじゃないよ。さっきからもう帰るぞって言ってんだぞ。なのにずっと俯いたまま黙りこくってさ」

 夫に声をかけられた途端さっきまでの物思いがうそのように全部吹き飛んでいた。これは所詮妄想の類だったのだろうか。私は何故無意識にラーメンの匂いを思い浮かべた。そういえば最近ラーメン食べてなかったな。めんどくさい事を考えるのは今度にしよう。今は結論を出さないでただ自然の欲求に従おう。

「あの今日ラーメンにしない?なんかラーメン食べたくなって来ちゃった」

「珍しいな。いつも自分の食べたいもの言わないのに」

「なんか今日はそういう気分なの。近くに美味しいラーメン屋さんがあるからそこ行こうよ」

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