小田原さんの手帳
隣の席の小田原さんは今年で定年退職する。小田原さんは絵に描いたように実直で何かあるといつも手帳にメモをとっているような人だった。だけど近づきがたいとかそういう人ではなく、なかなか社交的で私たちによくお菓子なんかくれた。私たちはそんな小田原さんが好きで昼食に誘ったりした。私はこの間小田原さんから自分は今年で定年退職だからと話された時凄く寂しくなった。私たちの小田原さんが今年でいなくなる。それはわかっていることだけど、こうして本人から改めてそれを知らされると結構辛い。
小田原さんはいつも一体何十年製だってぐらいに古ぼけた手帳を持っていた。手帳はカバーがそこら中禿げていて、手帳の間から見える中身のペーパーの外側もかなり黄ばんで汚れていた。私はある時その手帳が気になってそれっていつ頃から持っているんですかと聞いてみた。すると小田原さんはハニかんだような、少し照れたような顔で、この手帳は入社した時からずっと持っていると教えてくれた。それから続けてこう言った。
「もうボロボロの手帳なんだけど愛着があって捨てられないのさ。だけど勿論中身の紙はその都度取り替えているよ。だけどすぐに黄ばんじゃうんだ。汚くてごめんね」
そう、小田原さんはいつもこの手帳を持ち歩いていた。私は一度小田原さんが手帳をデスクに置き忘れてトイレに行きかけて、真っ青な顔で戻ってきたのを見た事がある。小田原さんにとって手帳はそれぐらい大切なものだった。彼は毎日手帳に何かしら書き込んでいた?照れくさいのか何かを書き込む時は腕と仕切り板で誰からも見えないようにして書いていた。私はそんな小田原さんを見るたびになんて真面目な人なんだろうと感心していた。
そんな真面目な小田原さんだけど、残念なことにあまり優秀じゃなかった。結局万年ヒラで、自分よりも若い人たちに次から次へと追い越されてしまった。今では自分よりはるかに若い係長に毎日注意される有様だ。小田原さんの後輩で新人の時彼にレクチャーを受けた課長は叱られている小田原さんを見て「あの人いつもメモとるのはいいんだけど、それを仕事に活かせないのがねぇ」と残念がっていた。
だけど小田原さんは周りの評価なんてまるで気にしていないみたいで今日もお昼休みにみんなにお菓子を配っていた。今日のお菓子はうまい棒だった。小田原さんがくれるお菓子は何故かスティック状のものが多い。たまにエアリアルを袋の口を開けて配ってくれるけど、ほとんどスティック状のものだ。その中でも多いのは今配っているうまい棒だった。彼は大きな袋から大量に入った、いろんな種類のうまい棒からいくつか取り出して私たちに見せてどれが食べたいと聞いてきた。
「チョコ棒あるよ。甘くて美味しいよ。あとたこ焼き味もあるよ」
だけど私たちはチョコとたこ焼き味を選ばず他のものを取った。小田原さんは少し納得いかなそうな顔をして言った。
「あれ?チョコとたこ焼き味食べないの?美味しいのに」
「あっ、小田原さんごめんなさい。チョコとたこ焼き美味しいんですけど、食べると唇が汚れちゃうんですよ」
私は申し訳ないと思いながら正直に話した。すると小田原さんは笑ってこう言った。
「唇が汚れちゃうんじゃしょうがないよね。チョコは黒いし、たこ焼きはべっとりくっつくしね。こっちこそごめんね。別にどうしても食べろって言っているわけじゃないよ」
「ああ、そんなことわかってますよ。小田原さん、本当にごめんなさいね。いっつもお菓子もらっているのに変に気を使わせて!」
私がこういうと小田原さんはハハハと笑い出した。そして笑いながらこんな事を言った。
「だけどさ、どうしてうまい棒ってチョコ棒だけ小さいんだろうね。もっと大きいの売ればいいのに。みんなどう思う?」
「多分チョコだと原材料が高いから他の棒と同じ値段で売ったら採算がとれないんじゃないですか?」
小田原さんは同僚のこの言葉を聞いて笑みを浮かべていった。
「でも、みんなチョコ棒も他のうまい棒と同じ大きさにして欲しくない?僕はして欲しいなぁ。今よりもっと大きなチョコ棒」
私たちはこの小田原さんの少年みたいな無邪気な言葉に笑った。ほんとに男の人っていつまでもこんな少年っぽさを持っているんだと思った。大きいチョコ棒なんて言ってる小田原さんは全く少年そのままだった。
午後はあっという間だった。というか午後は仕事は殆どなく、暇な時間をずっと小田原さんと雑談していた。小田原さんは定年退職を前にして吹っ切れたのかいろんな事を話してくれた。奥さんが鬼嫁で怖い事。だからキャバクラなんかもってのほかだという事。あとは読書が趣味でいつも電車の中で読んでいる事。私はそれを聞いて家では読まないんですか?と聞いた。すると小田原さんは少し悲しい顔をして「妻がうるさくてね。下手に本を家に置いていたらゴミ出しされちゃうんだ」と答えた。私はそれを聞いて結婚もいろいろだなと悲しくなった。私が小田原さんの奥さんだったら本なんか絶対に処分しないのに。あと小田原さんは映画も好きなんだけど、それも奥さんが気に入らないらしくて捨てられるとも話した。私は奥さんにいぢめられている小田原さんを想像して、自分は結婚してもそんな嫌な女になりたくないと思った。
さて、六時になり終業の号令がかかると執務室の職員たちが一斉に立ち上がった。でも私は当番だからみんなが帰るのを待ってなきゃいけない。最初に帰ったのは小田原さんだった。小田原さんはなんか急いでいるらしく号令がかかるとカバンを手に席から立ち上がって私にニッコリ笑って声をかけると、そのままダッシュで執務室から消えていった。それに続いて課長や係長をはじめとした他の社員たちも部屋から出てゆき、後に残ったのは私の仲のいい女子社員たちだけとなった。女子社員たちは小田原さんのデスクに集まって私に話しかけてきた。
「あっ、花枝、今日暇だから手伝ってあげるよ。こんな寒い日はさっさと飲み行かなきゃ」
「あのそれ飲みの誘い?戸締り手伝ってやるなんて珍しく殊勝なこと言うと思ったら、真希に幸子に美子。私が最近禁酒してんの知ってるでしょ?」
「な〜に言ってんのよ!禁酒何回目?花枝いつも一週間も持たないじゃん!」
「うるさい!」
と言いながら冗談のつもりで自分のデスクを叩いたら異様に大きな音と振動がして自分でもビビってしまった。私はみんなして引きまくっているのを見て慌てて謝った。だけどみんな私の方を見ずに何故か目を剥いて床を見ていた。
「あ、あのこれって……小田原さんの手帳だよね」
確かに床には小田原さんの、いつも肌身離さず持ち歩いている手帳が落ちていた。ああ!あの人忘れたんだ。会社の電話で伝えないと。と思った時、真希が頬をヒクヒクさせ床を指差しながらこう言った。
「あの、そこの飛び出たペーパーに書いてある名前あなたよね?」
私は真希が何を言っているかわからずただ指の差し示す方を見た。そこには異様に黄ばんだ紙の上に大きく私の名前が書かれていたのだ。達筆な字で『第十三話:花枝』とあった。その下には何やら異様に細かい字で何やら書かれている。真希は私に向かって全力で見るなと首を振っていた。彼女は視力が2.0なので人よりもよく見えるのだ。だけど私はたまらずに見てしまった。
な、なんなのこれ?小田原さん、毎日手帳にこんなこと書いていたの?他のも同僚とのエッチなことしか書いてねぇじゃん!どういうこと?いっつもいっつも真面目にメモってると思ってたらこんなことばっかりかいていたのか!
第二十話:大乱交
このどうでもいい落書き以下の駄文の最後にはこんな仰々しい事が書かれていた。
「官能小説の大巨匠小田原景吾先生、執筆三十周年記念超大作『夜課長小田原景吾』いよいよ完結!』
「花枝、どうすんのこれ?黙って捨てる?」
「いや、本人にちゃんと言わないと。多分もう少ししたら手帳忘れた事に気づいてすぐに帰ってくるよ。あの人の性格なら」
私の予想した通りそのすぐ後で年寄りとは思えないほどの超高速で小田原さんが執務室に入ってきた。
「ああ、あった!私の渾身の大傑作が!畜生はやるあまり肝心なものを忘れてしまうなんて私はボケてしまったのだろうか!だが、こうして見つかったら安心。早く乱交シーンの続き書かなきゃ!女どもがうまい棒をたらふく食わされるのが……」
ここで小田原さんはようやく私たちに気付きそして固まってしまった。私たちは一瞬彼の心臓が止まったかと心配したけど、彼が動いたので安心した。小田原さんは地べたに這いつくばって涙を流して私たちに謝った。
「ああ!ごめんなさい!悪気はなかったんです!私は昔からポルノ小説が好きで読むだけじゃなくて趣味でずっと書いてもいたんです!勿論AVも好きでAV創世記時代からずっと観てまして!ああ!許して下さい!こんな事がバレたら私の将来は終わりだ!懲戒免職で退職金は出ず、カミさんには逃げられて!ら私は一人露頭に迷ってしまう!皆さん、私が今まであなた方にお菓子をあげていたのは純粋な感謝の気持ちから。決していかがわしい気持ちからではないのです。ああ!許して下さい!この哀れな仔羊を救って下さい!」
私たちは哀れにも床に這いつくばって涙を流しながら許しを乞う小田原さんが流石に気の毒になってきた。彼にはやっぱりいろいろ親切してもらったことはあるし、下手に攻めてこの人がなんかしでかしたら困るし、しかしだからといっておとがめなしには出来ない。というわけでみんなで相談した結果条件付きで小田原さんを許す事にした。
「小田原さん、あなたの誠意はわかりました。今日の事は見なかった事にしましょう」
私がこう言うと小田原さんは目を潤ませた。だが私は気を緩めずこう言った。
「但し、それはあなたがその手帳の中のペーパーを今すぐ全てシュレッダーにかけたらです。それだけじゃありません。あなたは多分この他にも私たちをモデルにふしだらな事を書いたものを所持しているはずです。それも手持ちのペーパーをシュレッダーにかけたら家から持ってきて下さい。私たちはあなたが全てのふしだらな文をシュレッダーにかけるまでずっとここであなたを見張っていますから。ではまずその手持ちのペーパーをシュレッダーにかけて下さい」
私たちは自分たちの意志を示すために思いっきり小田原さんを睨みつけた。小田原さんは私たちの圧に恐れをなしたのかまるでネズミのように縮こまって拾った手帳を手にシュレッダーの方へと向かった。しかしその途中で彼は止まった。彼は何故か目の前の複合機の前に立って電源ボタンを押してしまった。私はとうとう小田原さんがボケたのかと思って注意した。
「あのそれシュレッダーじゃなくて複合機ですよ?」
それに対して小田原さんは困ったような笑みを浮かべてこう言った。
「それはわかっているよ。とりあえずこれをシュレッダーに入れる前にコピーしておこうと思ってさ。だって勿体無いだろ?せっかく頑張って書いたんだし……」
このろくでなしのエロ爺いのあまりにバカ丸出しの返答を聞いて私たちは激怒して一斉に小田原を指差して叫んだ。
「それじゃあ意味ねえだろこのボケ!」
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