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その時の自分にとって、都合のいい考えを都度取り入れればいい

現代は、情報があまりにも多すぎる。
このnoteでさえ、人の考え方やライフスタイルの記事があまりにも多すぎる。

あまりにも多すぎると、情報の迷子になり、「何が自分にとって必要なのか」がよくわからなくなり、何も感じなくなる。


少し前までは、「多くの情報を得ること」が自己防衛だったと思う。

だけど、今では「どれだけ必要ない情報を遮断するか」が自己防衛なのではないだろうか。


去年頃までは、たしかに「自分に必要だ」と思った情報を取り入れてきたと思う。
そうしないと生き延びれないと感じていたと思う。

だけど、今はどうだろう。
新しい情報を得る機会が多すぎて、得れば得るほど不安になる。

こないだ、『思い出トランプ/向田邦子』の読書会で感じたことがあった。
この作品には、誰一人"美しい主人公"などは存在しない。どこにでもいる"あるがままの人間そのもの"を映し出している作品だった。世間ではタブー視されている不倫や浮気、虐待といったことを行う人間の裏と表の顔をそのまま書き表していた。

この作品に対して、コルクの佐渡島さんが「この本を売る、売り文句が思いつかないし、現代でこの本は売れないね。」ということを言っていたのが印象的だった。
向田邦子さんは、直木賞受賞作家だが、現代の本と比べると言葉並びや表現が20代の私には読み慣れていないせいか読みづらく、理解の難しい話もあった。なんというか、"読んだことのない類の本"という印象だった。

「たしかに、この本は現代では売れないだろうな」と私も思った。
だが、私は向田邦子さんのフラットな視点や物言いには、優しさを感じた。人間のありのままを見つめ、受け入れようという様が清々しかった。現代に足りないものを感じた。

この体験から私は、こう考えた。
「もしかしたら自分が本屋で『いいな』と思う本があったときは、業界の戦略に踊らされているのかもしれない」と。

例えば、本屋にある本の帯を見て「自分に必要かもしれない」と思ったとする。
だけど、現代の本は、売れるように作られている。多くのビジネス本は、明確に答えがありゴールもある。小説も、主人公が成長したり、ヒーローのような立ち位置の物語が多い。それらは、売れるから作られているそうだ。一方で、『思い出トランプ』にはそれらがない。皆無だった。
だから、『思い出トランプ/向田邦子』は現代では売れないのだろう。

これを聞いて、自分はこの出版業界の風潮の中で手に取った本を「必要だ」と思わされているとしたら、それは果たして自分に必要なのだろうか。それは、ほんとうに自分の意思なのだろうか。

それは、「世間が創り出した風潮に飲まれて選んでいない」と言えるのだろうか。

だから、何の情報が本当に必要か見定める必要があるのではないだろうか。

そして、きっとそれは自分の心が一番知ってるはずだった。

なぜなら、「情報を得ること」は「自分がどう生きたいか」を決定していると感じたからだ。
「情報を得ること」は、「自分の視野を広げ、器を大きくすること」であり、「自分の価値観を形成すること」つまり「自分の言動を決めること」だ。
つまりは、「情報を得ること」は「自分がどう生きていくか」ではないだろうか。


きっと、これまで「自分がどう生きていくか」というテーマにおいて、納得の行く生き方ができなかった原因は、「自分に都合の良い情報だけ取り入れればいい」ということができていなかったからではないかと考えた。

分かりやすく例を挙げると、
"田舎育ちの人"は、幼少期から情報に乏しい環境に生まれるとする。
"都会育ちの人"は、幼少期から情報に溢れて囲まれた環境に生まれるとする。

前者は、情報が乏しいが故に、都会育ちの人と比較して人生の選択肢が少なく、未来が暗いと感じる。
ただ、実生活での比較対象が少ないからか、人と比べることは少なく心を病むリスクが低いとする。

後者は、情報には恵まれていて、人生の選択肢は有り余るほどで、何を選んだらいいか分からないがそれなりに納得の行く選択はきっとできる。しかし、実生活で比較対象が多く、人と比べることが多く、心を病むリスクが多い。


「どちらのほうが幸福か」なんてことは、統計を取ろうと思えばできるのだろうが、そんなことはどうでも良い。

どちらも、ないものねだりということだ。
田舎育ちの人は、都会育ちを羨み、都会育ちは、田舎育ちを羨むだろう。
それなら、どちらも取ったほうがいいに決まってる。

"目の前の納得の行かない出来事"に対し、どちらも共通するのは、「自分の納得のいく情報だけ取り入れていればいい」ができていないということだ。

「なんの情報を得るか」ということにおいて、優れた情報も、劣った情報なんてものはない。

いろんな人が、いろんなことを言っているかも知れないが、そんなのはどうでもいい。
どんな偉そうな人でも、一流だと言われてる人だろうが、そんなのは過去の栄光に焦点を当てられてるだけだ。

「優れている」「劣っている」が付属しているものは、誰かの評価基準のフィルターを通しただけの事物でしかない。

すべては、「自分がどう思うか」であり、それだけが真実だ。

だから、自分自身の評価基準を疑わなければいけない。
そんな優劣抜きにして、「自分は何を大事にしたいのか」だ。

「その時の自分にとって、都合のいい情報だけ取り入れればいい」をするにも、もっともっと自分の感じてることを分かりたい。

必要のない情報には、触れに行く必要もない。
既に持っている不要な情報は、忘却すればいい。
必要なら、取り入れればいい。


シンプルなことに気づくのは、いつも時間が少し要るなぁと思う。

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