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「人それぞれだから、人の気持ちはわからない。」=見たい世界を見るための言い訳

潜在意識(無意識)を探求するようになってから、常に私たち人間は「見たい世界を見ているだけ。」という感覚が強くなった。

顕在意識と潜在意識(無意識)について少し触れておくと...

顕在意識・・・オモテに出ている意識
潜在意識・・・所謂”無意識”といわれる意識

〈力関係の比率〉
顕在意識が3〜10%
潜在意識が90〜97%

そして、最近はその考えに拍車をかけるような事を、「見るということ」を考えることで知った。

「見る」ということ

ヒトは、目の前の世界を知覚することで情報を得ている。

知覚・・・刺激に対して意味づけを行う過程
人間を含む動物は、外界からの刺激を感じ取り、それに基づいて行動している。感じ取った外界の刺激に意味づけをするまでの過程を知覚と呼ぶ。
(例えば・・・熱い物に触れた時、皮膚が物理的な刺激(熱)に基づく感覚情報を受け取り、それに対して「熱い」という意味づけを行うまでの過程が知覚)

そして、実は私たちが見ている世界は、0.1秒前の世界だというのだ。(研究で明らかになったという)つまり、知覚には0.1秒の時間は要するということ。

だから、私たち人間は、0.1秒の間に知覚を通して、「見たい世界を見ているだけ。」なのだと思った。そして、「見たい世界を見ている。」を前提とすると、また違った解釈の仕方があることにも気づいた。

それは、「『自分の目(知覚)でしか世界は見ることができない。』と思い込んでいるだけなんではないか?」ということだった。これが実際に起こっていることなんじゃないか、と。

「見たいものを見ているだけ。」ということが”ナゼ起こるのか”を深く知るためには、ヒトにとっての”「見る」ということ”を考えることにヒントがあったことを知った。

それは、たまたま観たYoutube liveの中の、美学者の伊藤亜紗さんの話していた内容にヒントがあった。

「「見る」ということ」のトークセッションの中で、伊藤亜紗さんが言っていたスペインが生んだ20世紀を代表する最も多才な画家といわれたサルバドール・ダリのいくつかの作品と、ダリの知覚(捉え方)・インスピレーションの得方からヒントが伺えた。

ミレーの「晩鐘」に、ダリは憑りつかれていた

《「晩鐘(ばんしょう)」 ダリ独自の解釈》

手を合わせてうつむき祈りを捧げている女性の姿→”メスのカマキリのカマを構えたポーズ”

胸に祈りを捧げて頭を垂れている女性は、無意識の性的欲求を示しており、カマキリのポーズを示して男性を襲おうとする女性の性的パワーの表れだという。ダリは女性の中に眠る官能性に秘められている危険性をカマキリに関連づけた。

一方の男性は、帽子で股間を隠しており、頭をうなだれている様子が、性的抑圧や性的不安を表しているものだという。

・・・確かにカマキリのメスは、"生殖後にオスを食べる"という衝撃的な生態がある。

よって、ダリはこの「晩鐘」という作品から、強迫観念に近いようなインスピレーションを得たとも言えるし、同時にそのような知覚をしたとも言えるのではないだろうか。

だから、ダリはどんな風景を見ても、この作品の模写と重なっているような作品を仕上げていたという。他の作品も見ていこう。

ダリの目から見た風景

ダリの目から見ると、下にある岩の風景は、上にある作品のように見えたようだった。

(本当にモデルとなった風景は探しても出てこなかったので、似た風景を参考としてここに載せた。)

ダリが、メスのカマキリに見えたあの強迫観念のような知覚があったからこそ、この一見普通の風景を、あのような作品にはできたといえる。そして、あの知覚に囚われて別の風景も見てしまっていた

このようにダリの作品を見ていくと、ダリが”ミレーの「晩鐘」”から得たインスピレーションという名の”記憶”を通して世界を見ているようだった。

ヒトは”五感で司る観念に囚われてた世界を見ている”のではないだろうか

きっとヒトは、五感で得た何かしらの観念に常に囚われて生活している。それはきっと、ダリがミレーの「晩鐘」に囚われて世界を見ていたように。

その”観念”というのも、エピソードだったり、描写であったりと、カタチは様々だと思う。しかしそれは、とにかく”五感で司る観念”のことだ。

きっと、感覚を司ることの多い人は、絵や音楽などの芸術から得た観念に囚われやすかったり、理論的に司ること多い人は、エッセイやnoteや本から得た観念に囚われやすいのではないかなと考えたりした。

・・・ここで、私の中の仮説がある。それは、

『ヒトは、他人の知覚で世界を見ることはできるのではないか。』

これはつまり、『ヒトの気持ちを理解することは可能である。』と同じことを言っている。

私たちは普段、「理解できなかった。」という出来事があったと同時に、不本意な現実が目の前にはある。そして、決まって「人の気持ちを完全に理解するのは無理。だって違う人間だから。人それぞれだからね。」と考えることが多いように思う。しかし・・・

不本意な現実でさえも”自分の見たい世界”であり、正当化した理由すらもつけている

『理解できなかった。』という事象(不本意な現実)に対して、正当化するように理由付けをして、自分を納得させているのではないだろうか。

正当化した理由を後づけしてまでも自分を納得させるのは、”理解できなかった世界”にいる自分(”理解できなかった世界”を見ている自分)を保てないからなのではないだろうか。

(ここで言う”自分”とは、”自己を支える基盤”だ。)

理解できなかったが故に、自分が傷ついたという不本意な現実から自分を守り、正当化するために「人の気持ちを完全に理解するのは無理。だって違う人間だから。人それぞれだからね。」という理由を作り出して現実から逃げているように思えた。

自分に言い聞かせるような後付けの理由や言い訳に、私には見えたのだ。

《私の体験で例えてみる》

過去の恋愛において、「フラれた後、なぜ自分が傷つく状況になったのか理解できない。」という状況になったとき、その苦しみから早く逃れたいと願う。だから、「考え方も人それぞれで、人の気持ちを完全に理解するのは無理だから、うまくいかなかった。」みたいな所が終着点なことは過去にはあった。

それが実は逃げているとは当時の自分は思っていなかったが、「結局人の気持ちはわからないな。」という終着点についた、その世界ですら見たい世界だったのか...!と気づいた最近は、なんというか一人で圧倒された。。

やっぱり、「ヒトは見たい世界を見ているんだなぁ。」と納得できる見方との出会いをした日曜日だった。

読んでくれてありがとう。ではまた!

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