食べ物日記:12年ぶりのホット・オートミール
初めてオートミールを食べたのは19歳。ホストマザーが朝食で出してくれた時のこと。語学留学でオーストラリアへ来た私は、ローソン一家の家にホームステイすることになった。ママがリンダ、パパがフィリップ。子ども3人はもう家を出ていたので、余った部屋を学生に貸して生活費の足しにしているご夫婦だった。私の他にステイしていたのは、台湾人のエミリー。
シドニーから南へ約70キロ。ウロンゴンという街に、私が住んでいたローソン一家の家がある。ニューサウスウェールズ州では第3の規模の都市だ。私が住んでいたのは特に坂が多い地域で、1階にガレージを構え、階段を登った先(いわゆる2階)に玄関がある造りの家が多かった。ローソン一家の家も同じくだ。階段を登ると玄関の横に細長いレンガ造りのバルコニーが続き、2脚の白い椅子と小さめのテーブル、鉢植えなどが置いてあって、暖かい日にはリンダがよくそこで紅茶を飲んでいた。土星の輪っかを幾重にも重ねたようなメタルのオーナメントが屋根からぶら下げられていて、いつも学校から帰宅する時、きらきらと光るそれを見ていた。
ホームステイは、食事・光熱費込みの代金を2週間ごとに払う約束になっていて、リンダは家にあるものは何でも食べていいし、家にあるもので何でも好きに作っていいと言ってくれていた。基本的に朝は自分で適当にトーストやフルーツ、ヨーグルトなどを食べ、夜ご飯はリンダが用意してくれていた。お醤油や味噌、だしなどの日本の調味料が揃えてあり、時たまクッキングブックを開いて、日本風の味付けをした夜ご飯を作ってくれたこともあった。そんなリンダが、実は“I hate cooking.”なのと言った時は驚いた。でも今思うと、ただの冗談だったのかもしれない。“Thank you.”と言って、私はリンダからお皿を受け取り、リビングルームのソファに腰掛けた。
オーストラリアに着いたばかりの頃、あまり仲の良い友達もおらず、リンダもフィリップもエミリーも家に居なくて、暇な土曜だか日曜を過ごしていた日。ソファに座って右斜め前、部屋の隅に置かれたDVDの入った棚に『ALWAYS 三丁目の夕日』を見つけた。ふと手に取って、何気なく見始めた昭和時代を舞台にした日本の映画。家族やその周りの人間模様をハートフルに描いた物語に、私は一人号泣した。当時の私は、拙い英語力一つだけを武器に、未知の国で心細く過ごしていた。いわゆるホームシックというものだ。寂しくて仕方のなかった私を優しく包んでくれたのは、リビングルームにあったソファだった。大きくて柔らかいけど、沈みすぎなくて、膝を立てて座るのがお気に入りだった。あのソファの座り心地は今でもお尻が覚えている。
そんなソファにお尻を沈ませ、リンダから受け取ったお皿を太ももの上にのせる。薄い生成色をしたそれは、プレーンのシリアルのように見えた。スプーンで一口、口へ運んだ瞬間、「?」マークが頭を突き破って空中へ飛び出した。冷たい牛乳に浸けられていると思っていたらほのかにあたたかく、長風呂をしてふやけた手のひら以上にふやけてべちゃべちゃしていて、そして味がない。衝撃的なまずさだった。当然、リンダにまずいとも言えず、「シリアルをあっためるなんてオーストラリア人は変な食べ方をするのだな・・・」と思いながら、なるべく味わわないように舌の奥に置いて、飲むように胃袋へ流し込んだ。
それから帰国して12年が経ったある日、お菓子作りが得意な妹からオートミールは腹持ちが良いとの情報を得たので、スーパーで買ってみた。パウチの裏にある参考レシピの中から一つ選んで作ってみる。オーツ麦ミルクとオートミールを深めの皿に入れてレンジでチンしたそれは、見覚えのある曖昧な色をして、一目でその柔らかさや感触が伝わる食べ物だった。一口食べてみて、あっ、と思い出した。あの時リンダが出してくれたぐちゃぐちゃで、ナンジャコリャと思った朝食はこれだったのか。12年経った今はまずいとは思わなかったけれど、くまの容器に入ったハチミツを搾り出し、ぐるぐると回しかけて味を足した。床に座って、白い壁を見つめながら食べた12年ぶりのホット・オートミールは、ソファで一人泣いていた、あの時の自分を愛おしく思わせてくれた。
そして今、好んで食べるようになったホット・オートミール。そして恥ずかしげもなく、焼き林檎をのせるというアレンジまでするようになった。今なら19歳の私に教えてあげたい。ホット・オートミールは、焼き林檎をのせてハチミツとシナモンをかけて食べると美味しいよ、と。
あのソファは、まだあの家にあるのだろうか。幾人もの大小さまざまなお尻を乗せて、くたびれていないだろうか。もしかして私の他にもホームシックになった学生を包んであげているのだろうか。ぐちゃぐちゃになったそれをスプーンで一口、口へ運ぶたび、そんなことを思った。
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