現代文を学び直す、あるいはわかりにくい文章を楽しむ

 最近、大学受験現代文の参考書を読んでいる。問題も解いているから、勉強しているという方が適切かもしれない。ちなみに『現代文読解の基礎講義』という本だ。

 noteでエッセイを書き始めて気付いたのだが、僕はコミュニケーションに自分が思っている以上に興味があるらしい。そんな記事ばかり書いているような気さえする(実際はそうでもないのだけれど)。このような気付きもあってせっかくの機会だからと勉強を開始したのだ。

 もっともこの『現代文読解の基礎講義』という本は少し前から家にあった。日曜劇場『ドラゴン桜』を観て「現代文でも勉強するか」と勢いで買ってしまったのだ。それからしばらくは放置していたのだが、結果的に無駄にならなくてよかった。なかなか良い本で、これを選んで正解だったと思う。


 さて、そんなこんなで現代文の勉強を始めたのだけれど、その勉強が予想以上に面白くて驚いている。

 そもそも扱われている文章が興味深いものが多いのだ。雑学的知識を得られる楽しさはもちろんのこと、筆者の独特な考え方が、僕の思考を刺激してくれる。また、難解な文章を、散りばめられた手掛かりを頼りに解読していくパズル的面白さもある。これらの面白さは昔学んだときもそれなりに感じてはいたが、学び直してみてさらに強く感じることができた。

 さらに、個人的にはこれが一番の面白さだと思うのだけれど、文章の筆者の知的努力を感じられるのが面白い。

 基本的に現代文で扱われる文章は難解だ。ときに本気でわけがわからない文章もある。それはもちろん、筆者の能力が低くわかりやすい文章が書けないとか、かっこつけて無駄に小難しい表現にしているとか、そういうわけではない、と思う(そう信じたい)。読者の思考を触発するためにあえて難しく書いている場合もあるだろうが、多くの場合は、そもそも扱っている内容が難しいのだ。筆者が語りたい「何か」は容易に語られることを許さないものだったり、そもそも語りえないものだったりするのだが、それでも語ろうと足掻くからこそ、どうしても難解な文章になってしまうのである。あるいは、その「何か」を安易に表現してしまってはどうしても伝えきれない部分が出てきてしまうので、普通の意味での文章での情報伝達を超えた、言わば筆者の文章を読む「体験」を通して何かを伝えようとしているのかもしれない(これは読者の思考を触発するという意図に近い)。

 いずれにせよ、筆者はそれを伝えるためにはこう書かざるを得なかったのだ。そのような知的努力、知的格闘が感じられる文章に出会い得るというのが現代文の学習の醍醐味であるように、学び直すことで思うことができた。これは僕の錯覚に過ぎないのかもしれないし、このような「感じ」を抱くことと読解力には何の関係もないだろうけれど、興味深い気づきを得ることができたと思う。少なくともこの面白さは、高校生や大学生の頃は気が付くことができなかった(僕は大学生のときに現代文を一度学び直している)。

 この面白さに気付けたということは、やはり僕も少しは成長できているのだろう(そういうことにしておこう)。また、noteでエッセイを書き始めたことも良かったと思う。昔からよくわからないことを考えてはきたけれど、それについて書くということはあまりしてこなかった。せいぜい友達に少し話すか、自分が明瞭に理解していると思っていることを書く程度だった。自分が実践してみることで、先輩たちの努力がわかるようになってきたのだと思う。


 と、なんだかよい感じに終わらせようとしている僕であるが、まだ『現代文読解の基礎講義』を読み終えていないのだ。やれやれ……。続きを読み進めることにしよう。



【参考文献】

中野芳樹(2012)『現代文読解の基礎講義』、駿台文庫




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