大野のり子

インターネットはおろか、『地球の歩き方』も「成田」もなかった頃から世界をウロついてきた…

大野のり子

インターネットはおろか、『地球の歩き方』も「成田」もなかった頃から世界をウロついてきたけれど、縁あって、ついにカンボジアを‶終焉の地″と定めた(自称)元祖ノマド。

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  • たびたびの旅

    これまでにnoteに書いた、旅に関する記事を集めました。

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はじめて国境を見た日

私が初めて日本を離れたのは、今から半世紀ほども大昔のことで、行き先はロスアンジェルス。赤いチェック柄の布製の小さなスーツケースひとつ抱えて、「もしかしたらもう日本に帰ることはないかも知れない」と悲痛な想いで羽田を飛び立った日の光景を、今もぼんやり覚えています。 なぜロスだったかというと; 当時私は東京新宿区にあった3畳一間、トイレ共同、風呂は銭湯という‶学生アパート″に住んでいたのですが、筋向いの部屋に田中さんという兄妹が住んでいました。この部屋は唯一6畳あって、その1/

    • ダンダラテントウ虫と極私的カーボンニュートラル

      カブトムシの幼虫を部屋に持ち帰ったちょうどその夜、38.4℃の熱が出て、あら珍しい、風邪を引いたみたいと、常備してあったベンザブロックを飲みました。 じきに熱も下がり、3日目に近くのスーパーに食料の買い出しに出かけたのですが、レジのところで突然フラッと来て、倒れてしまいました。周りの人の方がビックリしたようで、救急車を呼ぶとか騒いでいるのが聞こえ、いくらふんだくられるかわからないので、それだけはなんとか阻止して、レジの近くでしばらく休ませてもらって無事に部屋に戻りました。

      • カブトムシを育てる!

        雨季だというのにさっぱり雨が降りません。夜中に時々降ることもありますが、それもしれた量で、このまま来月も降らなければ、米がうまく育たないのではないかと農民たちも心配し始めています。 白内障の手術を受けたおかげで夜間運転が可能になり、最近はファームの西空がこんな感じになってからアパートに帰っています。 畑の隅の方に堆肥置き場があるのですが、14日、そこを掘っていたら、こんなに大きなカブトムシの赤ちゃんが出てきました。さっそくネットで調べてみると、これは「3令幼虫」という段階

        • トッケイファーム モニター募集!

          概要:カンボジアのシェムリアップ市に隣接するトッケイファームでは、モニターツアー参加者を募集します。このツアーでは、軽作業の農業体験やDIY活動を通じて、現地の農村生活を体感できます。宿泊施設と基本的な生活設備が無料で提供されますが、光熱費として、ひとり1日1$のご負担をお願いします。 目的:このモニターツアーは、都市部では味わえない豊かな自然とシンプルな生活を体験してもらうことを目的としています。参加者がカンボジアの農村コミュニティと交流し、地域の文化や生活様式を理解する

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        はじめて国境を見た日

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        • たびたびの旅
          30本

        記事

          白内障手術てんまつ記 5

          横浜→名古屋 7月10日、横浜から名古屋に向かいました。高速バス2500円!バス料金はシーズンによっていろいろなのですが、今回は安かった!5時間ちょっとで着きます。 それにしても、日本は移動にかかる交通費がほんとうに高いですね。ちなみに、シェムリアップ⇔プノンペン(317㎞)は、バスで1000円からいろいろ。最近は3500円くらいの、個室夜行ホテルバスというのが走っているようです。あとミニバンで乗客が集まり次第出発という個人経営の車が、国道沿いで客引きをしていますが、窮屈

          白内障手術てんまつ記 5

          白内障手術てんまつ記 4

          ことぶき共同診療所 今回、私がなぜ横浜で白内障の手術を受けたかというのは、私の友人のA医師が、JR石川町のことぶき共同診療所に勤務していることからです。 かつて日本には3大寄せ場(日雇い労働の求人業者と求職者が集まる場所)というものがあり、東京の山谷、大阪の釜ヶ崎と並んで、横浜の寿は日本の高度経済成長期を底辺で支えた日雇い労働者の街でした。当時は一般の人たちはあまり近づきたがらないこの地域に、民間からの寄付を集めて1996年に開設されたのが「ことぶき共同診療所」です。

          白内障手術てんまつ記 4

          白内障手術てんまつ記 3

          *以降は、白内障手術とは直接関係ないです。 運転免許証更新 7月5日の術後検診までに免許証の更新だけはしておこうと、住民票が置いてある名古屋に向かいました。カンボジアの年1回(外国人のみ、カンボジア人は10年くらい有効)の運転免許証の更新には、自国の有効な免許証が必要なのです。私はまだ期限が来ているわけではないのですが、その頃には日本にいないという簡単な証明(パスポートのビザなど)があれば、期限前更新というのができます。 現在、高齢者(特に75歳以上の後期高齢者)の免許

          白内障手術てんまつ記 3

          白内障手術てんまつ記 2

          6月21日に術後1週間検診というのがあり、その後に一般的には1か月後検診というのがあって、白内障の手術はその段階でいちおう終了ということになるのですが、医師がいうには、念のため半年間は経過を診る必要があるそうです。私は特別に3週間で経過を診て、その後の判断をするということでお願いしました。それが7月5日です。 手術の費用はいくらかかるのか? ところで診療費なんですが、これが″驚異的な金額!″だったのです。実は、驚異的に、安かったのです。あくまで、私の場合はですが………

          白内障手術てんまつ記 2

          白内障手術てんまつ記 1

          シェムリアップ→成田 前回、予期せぬ行き違いから、予定していた白内障手術が出来ずにトンボ帰りをしてからちょうど2か月が経ちました。ほんとうにあっという間で、その間はほぼ毎日、40℃を越える酷暑の中でトッケイファームの″開墾作業″にひとり挑んでいました。なんでそこまで苦行にいそしまなければならないのか、自分でもさっぱりわからないのですが、ようするに″趣味″なんでしょう。日に日に身体が動かなくなってゆくのがよくわかりました。 6月11日、再び″辺境″のシェムリアップ・アンコー

          白内障手術てんまつ記 1

          日本滞在11日間記

          4月15日、シェムリアップ新空港からベトナム航空夜行便でハノイ経由中部国際空港着16日午前7時。 住民票が置いてある名古屋の友人宅にスーツケースを預け、区役所で健康保険証を受け取り、名古屋駅から新幹線に飛び乗って新横浜→関内。予約を入れておいたY眼科に到着したのですが、そこには驚愕の事態が待ち受けていたのです。 私は1年ほど前から、夜間視力というものが急速に衰えつつあり、運転中対向車のライトがまぶしくて手元付近がはっきりせず、日が暮れてからの運転は控えていました。ネットで

          日本滞在11日間記

          クメール・ルージュの少年カメラマン 13

          A Message from Nhem En 私、元 S-21のカメラマン Nhem En は、人道に反するあらゆる戦争犯罪と、国民と国家のことを第一に考えることなく、政治的利益や自分たちの絶対的権力を守るためだけの内戦を止めるよう、すべての世界の指導者たちに訴える。そして、自分たちの行動が国家を破滅に導くのではないかということを常に考えてほしい。戦争と内戦は、私たちの無垢な子どもたちの生命と未来を破壊するだけである。 今日の内戦、シリア、イラク、リビア、アフガニスタン、

          クメール・ルージュの少年カメラマン 13

          クメール・ルージュの少年カメラマン 12

          Cambodia's Genocide-Lessons Learned 1979年1月7日、ベトナム人の部隊がクメール・ルージュを追い出して首都プノンペンを占拠した。私は何人かのクメール・ルージュの兵士達と一緒に S-21 から Kompong Speu 州へ逃げた。私は AK-47 銃一丁と、自分の身を守り、また途中でベトナム兵と戦うためにいくつかの手榴弾を与えられた。もちろん私は、クメール・ルージュに従って、カンボジアとタイ国境近くの新しいキャンプに向かった。私はクメー

          クメール・ルージュの少年カメラマン 12

          クメール・ルージュの少年カメラマン 11

          Inside the Prisoners Cell この悪名高い S-21 について私が知っている限りでは、ここで死を免れた収容者はいない。クメール・ルージュは、収容者から自白を得るために、彼らの肉体、精神、魂を怯えさせる10の取調べルールを開発した。収容者は人間として扱われることはなかった。 S-21 でクメール・ルージュのカメラマンを務めていた私は、自分の仕事を正確にこなし、素早く次の人に進まなければならないとわかっていた。通常、クメール・ルージュの警備員は、すでに手

          クメール・ルージュの少年カメラマン 11

          クメール・ルージュの少年カメラマン 10

          *あるところから、無断転載禁止の警告がきましたので、残念ですが削除しました。

          クメール・ルージュの少年カメラマン 10

          クメール・ルージュの少年カメラマン 9

          *あるところから、無断転載禁止の警告がきましたので、残念ですが削除しました。

          クメール・ルージュの少年カメラマン 9

          1枚の写真 チャン キム スラン

          トゥール・スレン虐殺博物館で、もっとも″有名″となったこの1枚の写真。私も初めてここを訪れた時、このふたつのまなざしに射すくめられて、しばらく動くことができませんでした。幼子を抱いてまっすぐにカメラを見つめる、絶望をすら超えてしまったかのような静謐なおもざしと、頬に伝わる一筋の涙。この写真もまた、本書の Nhem En が撮影したもののようです。 チャン・キム・スランは、クメール・ルージュの幹部だった夫が内部粛清にあい、生後5か月の長男と共に身柄を拘束されて、1978年5月

          1枚の写真 チャン キム スラン