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クメール・ルージュの少年カメラマン 12

Cambodia's Genocide-Lessons Learned

1979年1月7日、ベトナム人の部隊がクメール・ルージュを追い出して首都プノンペンを占拠した。私は何人かのクメール・ルージュの兵士達と一緒に S-21 から Kompong Speu 州へ逃げた。私は AK-47 銃一丁と、自分の身を守り、また途中でベトナム兵と戦うためにいくつかの手榴弾を与えられた。もちろん私は、クメール・ルージュに従って、カンボジアとタイ国境近くの新しいキャンプに向かった。私はクメール・ルージュのカメラマンとして、1979年から 1995年まで生活し、働き続けた。

カンボジア政府が和解政策を発表し、すべての元クメール・ルージュ兵士を罪に問わないという法律を制定し(*この部分に関してはやや不明、誤訳かもしれない)、難民たちに故郷に戻るようにと発表した時、その時初めて、私の家族全員が帰郷した。国境近辺でクメール・ルージュと仕事をしているときに見た光景にはショックを受けた。彼らはクメールの人々と、兵士や村、地区の長などを含めて、以前プノンペン政府に仕えていた人々を殺害、処刑し続けていた。自分たちの兵士や指揮官すら、プノンペン政府のスパイだと糾弾して殺したこともあった。

″もし腫れたり腐ったりした肉があれば、それを取り除かなければならない。″というのが、クメール・ルージュの指導者達の常套句だった。

クメール・ルージュの幹部は常に、仕事に警戒を怠らないよう全員に注意を促し、さもなければ命を失うことになるだろうと脅していた。

1979年にベトナムがカンボジアを占領した後も、クメール・ルージュの殺人の政治と文化革命はまだ終わっていなかった。オンカーのルールと指示に従わない者には、誰かれなく殺戮と処刑を実行した。私は1995年までクメール・ルージュのキャンプに住んでいたが、その後、自主的にカンボジア政府に加わった。

クメール・ルージュ政権下で、私はいとこ、叔母、叔父を含む25人の家族を失った。私の兄 Nhem Phon は、クメール・ルージュの海軍部門 No.164 で働いていたが、彼らに殺された。Phnom Dang Rek 基地のクメール・ルージュ軍に勤務していた私の他の 4人の兄弟は、1979年以降のカンボジア政府軍との戦闘で戦死した。私は、クメール・ルージュの下で亡くなった私の兄弟や近親者達に、いったい何が起こったのかを考えた。私たち家族は、1970年以前から長い間、革命のために尽くしてきたにもかかわらず、良いことは何一つ起こらなかった。

クメール・ルージュが 1975年から 1979年にかけてカンボジアで何百万人もの人々に行ったことは、真のジェノサイドだったと言うことができる。
彼らはクメールの人々に食べものも、自由も与えず、その代わりに殺害した。この政権下で約200万人が亡くなった。すべての犠牲者のために、彼らの人道に対する罪は裁かれなければならない

彼らはカンボジアを文明国や先進国として発展させたり、建設したりはしなかった。それは、カンボジアの人的資源を皆殺しにする純粋なジェノサイドであり、私にも他の国民にも決して理解できないことだった。

カンボジアで展開されたような、自国民に決して自由を与えない体制は、世界のどの地域でも再び繰り返されるべきではない。彼らの体制が終わる頃には、ほんのわずかな資源しか残っていなかった。しかし、クメール・ルージュは人的資源なしに、どのようにして文明化された先進国を築くことができたのだろうか?そして誰のために?

この政権から恩恵を受けた人たちも少しはいる。彼らのように教育を受けたことのない人たちは、今でもこの政権を愛し、支持しているかもしれない。しかし、クメール・ルージュの政権下で 3年8ヵ月と 20日間、苦しみを味わった何百万人ものカンボジア国民は、この残酷な政権にもううんざりしている。特に私たちのように、1970年以前から 1995年までクメール・ルージュ革命を支持し、そのために尽くしてきた者は、もはや彼らの犯罪を容認することはできないだろう。私は、S-21 ですべての犠牲者の死を目撃し、クメール・ルージュが自分たちの支持者にさえ処刑政策をとるのを目の当たりにして、本当に怯え、トラウマになった。

私は、2014年8月7日にクメール・ルージュの法廷(*1)が開かれ、2人の元指導者の Khieu Samphan (*2)と Nuon Chea (*3)が起訴され、終身刑が言い渡されたことに満足している。

長い裁判にもかかわらず、そして正義を得るためのおよそ35年の遅れにもかかわらず、すべての犠牲者は最終的にはある程度の正義を認められた。

正直なところ、この裁判の後、例えば"カメラマン "である私のような下級職に就いていた者が、これ以上罰せられたり、投獄されたりすることがないことを願っていた。なぜなら、私たちが任務に就いていたあの頃、誰もが死ぬ順番を待っていたからだ。私は、クメール・ルージュの意思決定や政策に直接関与していない一般の元クメール・ルージュ兵士やその他の人々の間で、これ以上の憎しみ、怒りや復讐を見ることがないようにと願っている。

*1 カンボジア特別法廷https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%B8%E3%82%A2%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%B3%95%E5%BB%B7
*2   Khieu Samphan (キュー・サムファン)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3
 *3  Nuon Chea (ヌオン・チア)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A2

最終章→ A Massage from Nhem En


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