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1枚の写真 チャン キム スラン

トゥール・スレン虐殺博物館で、もっとも″有名″となったこの1枚の写真。私も初めてここを訪れた時、このふたつのまなざしに射すくめられて、しばらく動くことができませんでした。幼子を抱いてまっすぐにカメラを見つめる、絶望をすら超えてしまったかのような静謐なおもざしと、頬に伝わる一筋の涙。この写真もまた、本書の Nhem En が撮影したもののようです。

チャン・キム・スランは、クメール・ルージュの幹部だった夫が内部粛清にあい、生後5か月の長男と共に身柄を拘束されて、1978年5月14日に S-21 に連行されたようです。 Nhem En 自身が、″この写真が撮られた数日後に、母と子が処刑されるのを知ることは、とてもつらい気分だった。無視しなければと、自分に言い聞かせ続けた。″と書いているように、プノンペン南方のチョンエク村(現在、キリングフィールドと呼ばれている処刑場)へ連行されて殺害されたものと思われます。

この写真がなぜ″有名″になったかというと、もちろんこの写真自体に人の心を激しく揺さぶる力が秘められているからですが、実はもうひとつ理由があるのです。

それは、2010年、当時の米国務長官ヒラリー・クリントンが博物館を訪れた際にこの写真の前で立ち止まり、それがメディアを通じて全国に発信されたからです。もちろんアメリカ本土にも発信されたことでしょう。

しかしこの話には、もっと重要な続きがあって、カンボジアのメディアに掲載されたこの写真が、偶然チャン・キム・スランのいとこの目に止まったのです。

チャン・キム・スラン夫妻には、写真の赤ちゃんの他に2人の女の子がおり、次女の方はプノンペン解放後に病死しているのですが、長女のセク・セイは健在だったのです。

彼女は、40年前、11歳の時に突然子どもたちの前から姿を消した両親の行方を、ずっと探し続けていたそうです。

このことを知った DC-Cam(*)が、残されていた資料を調べつくして父親を特定し、セク・セイがようやく両親の消息にひとつのピリオドを打ったのは、さらに10年の後だったようです。

父親の名前はセク・サット。S-21 に残されていた膨大な量の″供述書″では偽名が使われていたのですが、その″供述書″の中に妻と子供の名前が書かれており、それで特定されたものです。

*DC-Cam(ドキュメンテーションセンター カンボジア)は、1995年、米イエール大学の Cambodian Genocide Program の現地オフィスとしてプノンペンに設立後、97年には各国の支援を受けてNGOとして独立している。クメール・ルージュ時代の歴史資料の収集、保存、公開を主目的としており、2018年にはマグサイサイ賞を受賞している。

また、クメール・ルージュ時代に起きた悲惨な出来事を未来の世代に伝えることの必要性を説き、高校生を対象にした歴史教科書を作成している。

*トップ写真は、チャン・キム・スランの写真を持つ、孫娘のファン・スレイ・リーブ

本書にたびたび登場する、S-21 所長のドッチ(Duch)に関してもあれこれネットで探ってみました。もともとは数学教師をしていて、本来は真面目で厳格な性格だったようです。ベトナム軍が首都に進攻して、S-21 を発見したのが1979年の1月8日、ドッチは前日の正午過ぎまで残っていて、最後の14名の収容者の殺害を見届けてから逃亡したようです。幸いというべきか、時間がなかったからでしょう、書庫に残された膨大な文書類は、証拠隠滅されることなく、すべてそのまま残されていました。

その後各地を転々とし、死亡説も流れていたのですが、1999年に、タイとの国境地帯の難民キャンプで働いていたところを、アイルランド出身のジャーナリスト、ニック・ダンロップによって偶然発見されました。彼は、ドッチの写真を常に持ち歩いていたそうで、ドッチは素直に本人であることを認め、いったんは逃亡したものの、後にカンボジア政府に投降しています。

2012年、カンボジア特別法廷(*クメール・ルージュの犯した犯罪を裁くために、カンボジア王国政府と国連で合同開廷された法廷)で終身刑の判決を受け、2020年9月、77歳で病死しています。

私が現在翻訳を継続している『クメール・ルージュの少年カメラマン』の中には、ドッチの日常性、人となりが垣間見られる記述がたくさん出てきますが、ゲームに出てくるような血に飢えた獣ではなく、時には、他人の気持ちを慮ることもでき、外国語にも堪能で、非常に頭の切れる秀才だったようです。その彼が、なぜ20,000人ともいわれる自国の同胞の命を絶つよう、冷酷な命令を下すことができたのか。

ドッチ裁判のことを思うと、どうしても比べたくなるのが、有名なナチのアイヒマン裁判です。1961年のことですが、後に、防弾ガラスで囲われた被告席に座る、真面目そうな瘦身の男の映像を、テレビで何度か見た記憶があります。アイヒマンは、公判中に「ひとりの死は悲惨だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」と発言したそうですが、ドッチもまた、自分は命令に従っただけであると、無罪を主張しました。

人はなぜ人を殺すのか?

″ネットサーフィン″をしていて、私も着地点が見つかりません。そもそもそんなものはないでしょう。『エルサレムのアイヒマン』、超難しそうな本だけど、なんとかこれを入手して、読んでみようという気になっています。

この項、なんだかバラバラで、特に若い人にはちんぷんかんぷんでごめんなさい。あと1/3残っている翻訳がんばって続けます。


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