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白内障手術てんまつ記 4

ことぶき共同診療所

今回、私がなぜ横浜で白内障の手術を受けたかというのは、私の友人のA医師が、JR石川町のことぶき共同診療所に勤務していることからです。

かつて日本には3大寄せ場(日雇い労働の求人業者と求職者が集まる場所)というものがあり、東京の山谷、大阪の釜ヶ崎と並んで、横浜の寿は日本の高度経済成長期を底辺で支えた日雇い労働者の街でした。当時は一般の人たちはあまり近づきたがらないこの地域に、民間からの寄付を集めて1996年に開設されたのが「ことぶき共同診療所」です。

初代院長の田中さんという人は、47歳で市のケースワーカーの仕事を辞めて医学部に入り直し、53歳で医師免許を取得した人です。当時東京の大学生だったAさんは、「寿の住人たちに敷居の低い医療(誰もが身近に医療を受けることができる)を」という田中さんの理念に感銘を受け、自分も卒業後に実家のある松本に戻って信州大学の医学部に入学。一時期予備校でアルバイトをしながら卒業したわけですが、私は当時の職場の同僚という関係でした。

ところが、田中院長はじきにガンで亡くなってしまい、その後を継ぐため、2003年にAさんは横浜に戻って来たわけです。

現在の寿には寄せ場はもちろん、ハローワークもありません。住人たちも他地域から越してきた人が多く、共通しているのは高齢と貧困と単身。いわば、一般社会では支えるのが容易でない人々を受け入れているのです。街を歩くと車椅子の人や障がいを持った人も多いのですが、街全体にそういった人々をみんなで支えてゆくという″ゆる~い優しさ″といった雰囲気が流れていて、ある人たちは支えあい、時には孤高を認め合い、人がそれぞれ自由に生きてゆくことに寛容な街といった趣があるのです。

寿の住人は、それぞれに問題や事情を抱えている人たちがほとんどで、既存の枠組みでは対応が難しいのです。「猫の手も借りる勢いで繋がって、みんなで″寄ってたかって″サポートする」というA医師の理念は、ある意味、日本の近未来社会のあるべきひとつの形ではないかと思っています。

2畳、3畳というかつて″ドヤ″と呼ばれた簡易宿泊所の一部は、現在は少しリメークされてバックパッカーの寄せ場ともなっています。私も泊まったことがありますが、2畳くらいの部屋にクーラーもテレビもあり、Wi-Fiも飛んでいました。隣にいたのは中国から単身やってきたという若者で、世界一周旅行の途中だとか。中国も変わったなぁと思ったものでした。

何かあったらまた飛んで来て

さて、7月4日に松本から横浜に戻り、5日、山根眼科クリニックで、術後3週間検診を受けました。本来は1か月後らしいのですが、1週間短縮してもらい、ちょっとドキドキしながら検診。私自身は、手術の時からずーーっと一度も違和感もなく、処方されたロキソニンも飲んだことはありませんでしたが、個人差があって、痛み止めが必要な人もあるようです。

またまた何台もの機器で検査して、最後に山根先生の検診。「順調ですね。まぁ、カンボジアに帰国しても大丈夫でしょう」と小太鼓判を押していただきました。ヤレヤレと胸をなでおろし、急いで帰国便を用意しなければと思っていると、「何かあったらまた飛んで来てください」と追っかけられてしまいました。イヤ、それはもうさすがにカンベンです。

赤レンガ倉庫

せっかく横浜まで来たのにどこにも行ってないので、有名な赤レンガ倉庫まで歩いてみることにしました。さすが横浜、道路のアチコチにいかにも″洋館″といった文明開化の香り漂う建造物も多いのですが、まあ、現代建築とのサンドイッチで、正直なところ、″なんだか目が疲れる″街だなぁというのが私の印象です。

この日は朝からの猛暑で、赤レンガ倉庫にも人通りはほとんどなく、私も早々に退散。内部にはレストランや商店、レンタルスペースなどが入っているようです。

北朝鮮工作船

帰ろうとしたところ、すぐ近くで大型のヘリがホバリングしているのが目についたのでそちらに廻ってみました。

その下に発見したのがコレ。こういうものがあるということは、観光マップにも道標にもいっさい書いてありません。赤レンガ倉庫のすぐ隣です。入場無料だったのでさっそく入ってみました。

入ってすぐにギョッ!とさせられるのですが、内部に展示してあったのは、半ばさび付いた一隻の船。「北朝鮮工作船」です。入り口にはわざわざ撮影可能です、と記されていました。拡散希望ということなんでしょうか?

(もらった資料によると)この船は、全長29.68m、44t で、2001年に九州南西海域で海上保安庁の巡視船に追尾、射撃され、後に自爆し沈没したものを、翌年海中から引き揚げたものです。7名の乗組員の遺体の司法解剖の結果と、回収された武器や装備品、所持品などから、北朝鮮の工作船と特定されました。覚せい剤の密輸取引に使用されていたと記してあります。しかし、1年近くも海中にあった船の中から覚せい剤がほんとうに発見されたのか?自爆したのなら、当然証拠は隠滅されているはず……などなど、疑問は残ります。

横須賀の防衛大学校の生徒たちも熱心に見学していました。彼らは何を思うのか?聞いてみたい衝動にかられましたがそうもゆかず、おしゃれなミナト横浜の別の顔を、まざまざと見せつけられた思いで帰途につきました。



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