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水面のゆらぎ/抽象画の兆し〜展覧会「モネ 連作の情景」@上野の森美術館

2024年に入って初めて訪れた展覧会が、「モネ 連作の情景」です。

会場の上野の森美術館はかなり混雑していました。さすがモネ!大人気ですね。
 
第1回印象派展(1874年)から150年の節目を機に催された本展は、1890年頃(モネ50歳頃)に編み出された「連作」に焦点を当てつつ、画業をたどるという内容。
 
私が特に注目したのは、「印象派前夜」の時期にオランダで描かれた作品と、水面の表現でした。

モネとオランダ、「印象派前夜」


今回、モネがオランダで活動していたことを初めて知りました。
「100%モネ」のみならず、オランダ時代をフィーチャーしたのも、おそらく本展ならではかと思われます。
 
そしてクレジットを確認して、納得しました。
監修者はオランダのクレラー=ミュラー美術館館長で、前デン・ハーグ美術館館長という人物。それに加えて、「企画:ハタインターナショナル」とあったからです。

ハタインターナショナルは、オランダ美術界との強力なネットワークを持っていて、日本で開かれたオランダ絵画展は、ほぼ漏れなく彼らの力を借りています。この展覧会に新鮮味が添えられたのは、ハタさんのおかげかもしれません。
 

さて、オランダ時代のモネの滞在地は、アムステルダム近郊のザーンダムです。1870年に始まった普仏戦争を逃れてロンドンに渡った後、1871年に当地を訪れ、数か月間滞在したといいます。

第1回印象派展に出された、あの《印象・日の出》(1872年)が水景画であることをふまえると、「印象派前夜」に運河の街で過ごしたことは有意義だったのではないか、と想像します。

《印象・日の出》1872年


ザーンダムで描かれた作品は今回5点あり、とりわけ《ザーン川の岸辺の家々》に釘付けになりました。
川辺の家々や木々の映り込みが、きらきら、ゆらゆら揺らめく水の穏やかな動きを伴って描出されていたからです。

《ザーン川の岸辺の家々》1871年

水平に置かれたくっきりとした筆跡は、やや長目であるものの、まさに点描。1880年に描かれた《ヴェトゥイユの教会》の水面描写と通じるところがあって、モネらが確立した技法「筆触分割」を予感させます。 

《ヴェトゥイユの教会》1880年


写したのは「瞬間」、「見たまま」を直感的に


19世紀のフランスは、1830年代に起きた産業革命で近代化・都市化が進行していました。
 
時代の変化は、美術の世界にも影響を与えます。
 
それまでの絵画における主要な関心事は「何を描くか」、すなわち主題でした。主題には序列がありました。歴史画(神話、宗教、歴史に取材した物語画)を最上とし、筆跡のない滑らかな画面に理想美を作り上げる伝統が支配していたのです。

そこに「同時代」「現実」に目を向ける画家が現れます。クールベです。
彼は近代化・都市化で生じた富の格差と不均衡、そして労働者階級の間に広がった社会主義思想に反応、自分が見た現実を美化することなく、ありのまま描き出しました(=レアリスム)。
 

ギュスターヴ・クールベ≪オルナンの埋葬≫1849年


そんなクールベの精神に共鳴し、「見たまま」の描写を徹底させ、「瞬間」を写し取ろうとしたのが、モネら印象派とされます。主観的・直感的描写が特徴です。
その輝くような明るい画面は、筆跡を残さない伝統に反して、多彩な筆触に覆われています。これが「筆触分割」で、絵具を混ぜずに並置する革新的技法を編み出しました。
 
「見たまま」「瞬間」を追及したモネは、自然の中の色彩が外光の下で生じる色彩現象であることを発見、次第に光そのものを主題にするようになっていきました。刻々と移ろう光。それを捉え、写そうとして、彼の主観的・直感的描写は色彩表現に偏り、形態は曖昧に……。
画面は写実を離れ、抽象性を備えます
 

連作「ウォータールー橋」は、時間、天候、季節で変わる陽光の下で橋、テムズ川、工場らしき建物、大気を定点観測的に描いたシリーズです。

《ウォータールー橋、曇り》1900年
《ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ》1904年
《ウォータールー橋、ロンドン、日没》1904年

一連の作品に見られる色調の違いは、色彩が光の効果であることを示すと同時に、色彩への偏重も感じさせます。形態は全体的にぼやけています。橋はまだしも、遠くに建ち並ぶ工場らしきものは、かろうじて煙突が認識できる程度だったり、霧が出ているのか、かすんでしまっていたり……。
 

抽象絵画を準備したモネ

  
今回の展示で最も抽象性が感じられた作品は、晩年の1918年頃に描かれた《睡蓮の池》でした。

《睡蓮の池》1918年頃

モネは画面よりさらに下方の場所から、池を見下ろしていますね。

画面下の、左右に見える睡蓮は、荒い筆触で、単純化して描かれています。

とりわけ目を引いたのは、画面左上の群生する睡蓮です。輪郭を失って混ざり合い、水面に溶け込んで、抽象模様と化しています。

右下の睡蓮
左上の群生


モネの左と右斜め前の方向には、背の高い木が枝を広げているのでしょう。
水面に広がるこの二つの鏡像は、睡蓮とその周辺の筆が横向きに引かれているのに対して、主に縦方向の筆触(弧を描くものも)を連ねて表されています。そのため水面の状態、すなわち水の揺らぎとそこに生じる模様が、鏡像、睡蓮周辺、その他でそれぞれ異なっています。左の鏡像なぞ、渦巻いているようにも見えます。

こんな池って、現実にあるのでしょうか?

左下の睡蓮と木の鏡像
群生との周り水面の筆触は横向き
いろんな筆触が混ざり合っています!


この水面のありようは、他の出品作品には見られませんでした。
例えば下の作品たちのように、鏡像を含む水面全体の表情が概ね一様で、まとまりをなしていると感じられました。

《モネのアトリエ舟》1874年
「美術展めぐり:モネ展(これからと、今までに来日したモネ展、モネ作品を巡ります)」、
4 travel.jp webサイトより引用
https://4travel.jp/travelogue/11581183(2024年1月14日閲覧)
《ジヴェルニー付近のセーヌ川》1894年

《ジヴェルニーの洪水》1896年

《国会議事堂、バラ色のシンフォニー》1900年


 
モネの絵の抽象化には、もう一つ要因があるようです。白内障です。
 
モネは1908年頃から目のかすみを覚えたらしく、1912年に白内障の診断を受けています。

歳をとって白内障になると、外界が黄色っぽく見えるようになるのだとか。青系の光が濁った水晶体を通らず、網膜に届く光が赤・黄系だけになるからだそうです。
それで、1922年に手術を受けるまでの約10年間に描かれた作品は、細部が見えないため筆触は荒く、色は全体に黄色から赤味がかった茶色になってしまったといいます。
 
《睡蓮の池》もその時期の作品です。ぱっと見て、真っ先に「黄色いなぁ」と思いました。筆の運びも大きいです。

モネの主観的・直感的描写は、病によって、はからずも抽象度を増したといえるかもしれません。色の感知に支障をきたす白内障は、おそらく当時の画家にとって致命的だったでしょう。しかしモネの場合は、結果的に、彼の革新を後押しすることにつながったようです。災い転じて福となす……でしょうか。
 

以上のようなモネの活動と印象派の動向を通じて、色や形そのものがもつ表現力が注目されるようになりました。スーラ、セザンヌ、ゴーギャンなどのポスト印象派が、思想や技法を個々に発展させて、新たな芸術を展開、モネら印象派を乗り越えようとします。

ジョルジュ・スーラ《グランド・ジャット島の日曜日の午後》1884〜1886年

ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》1887年頃

ポール・ゴーギャン《タヒチの女(浜辺にて)》1891年


そして、美術における関心は、次第に「何を描くか」から「どのように描くか」を探求する方向へ向かい、表現様式を拡大、抽象絵画にもつながっていきます。この美術史上重要な潮流を、モネらが生み出したのです。

モネ、やっぱりさすがです!


……長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
遅まきながら、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

最後になりましたが、年明けから被災された皆様に、心よりお悔やみとお見舞を申し上げます。


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