成績表

成績表にマイナス評価って必要?

今回は、学校の成績表(特に小学校の通信簿・通知表)について、ボクが個人的に思っていること、考えを書いてみます。

これを書くことに何か意味があるかと言われたら分からないけれど、長男の不登校がきっかけで生まれた考え方とも言えるので、自分の成長や考え方の変化の記録しても、まぁ良いのではないかと思ったので、誰が読まなくてもとりあえず書きます。(笑)

プラス要素だけの評価で良くない?

結論からいうと、かつて主流だった数字の5段階評価とかも含めて、「真ん中に普通(並)」のような評価を示す記号があって、そこに「より出来ていること(得意なところ)」と「あまり出来ていないこと(苦手なところ)をそれぞれ評価するような形は、ナンセンスだと思っていて、評価は全て0ベースでスタートする。

基準というかベースは全て0スタートで、マイナス評価は不要。
評価するのはプラスの項目のみで、出来る部分、優れた部分、際立つ部分、つまり強みや特性とか、あくまでもその「個人(パーソナル)の良いところ」に着目して評価する方法で良くない?と思うんですよね。

どういう事かと言うと、そうした方が良いなと思う理由が3つあると思っていて。

苦手意識を植え付けるメリットはあるか。

1つは、苦手なことやあまり出来ていない事って、わざわざ「これが出来てない!」と他人に提示されなくても、多くの場合、本人はそれに気付いてると思うんですよね。

それに対して「あなたこれ苦手ですよね!」って突きつけられたり、「これをやりましょう!」っていう圧で来られたり、無理強いされたりしても、それって余計に苦手さを意識する事になったり、目を背けたり、余計に嫌いになったりする事の方が、「はい分かりました頑張ります!」ってなる人より多いんじゃないかぁと思うんですよね。

※スポーツにおけるアスリートとコーチのような関係だったり、進む道の先というか、特定した方向を向いている中でより高みを目指すよな場面では別だと思いますけどね。

覚えようと思う時が一番覚える。

2つ目は、仮に苦手なことがあったとして、「いま出来てないとマズいことですか?」っていうこと。

例えば、学校の授業とかで、周りの子たちと一緒に教わったり、一緒に始めた事があったとして、それはその時に皆と同じ速度で覚えないといけない事なのか?覚えるのが遅かったとして、誰が困るの?と思うんですよ。

仮に周りの子より覚えるのが遅くても、学習速度が違っても、もしそれが、本人が覚えようとして努力してるのであれば、時間やタイミングは関係なくて、例えゆっくりでも、それはただ続けて応援してあげたらそれだけで良い事だと思うし、仮に、今は覚えようとする気がない場合でも、本人が必要だと感じる時が来たなら、どんなに後からでも、その時に覚えればいいんじゃない?って思うんですよね。

何より、好きな事をやってる時とか、本人の意思で向き合ってる時が、1番覚えられる時だと思うから。

好きなこと、得意なことに注目する。

3つ目は、出来てること、得意なことにフューチャーするというか、周りも本人も、そこに注目する方が得るものが大きいと思うんですよね。

第一、好きな事や得意なことをしてる時は、笑顔でいられたり楽しいと思うんですよね。
これはさっき言った、好きな事や本人の意思でやってる時はガンガン覚えるっていうのに通じる事ですけど、やっぱり、他人から認められたり褒められたりしたら嬉しいし、それは自己有用感が育つと思うし、ボクはこれが出来る!と思えること、認識を持つことは自尊感情を育てて、自己肯定感に繋がると思うんですよね。

だから、評価する場合も、ただ「出来てる」で終わるのではなくて、より得意なこととか、特に秀でていることとか、個人の特性にあった分野とか、好きなことに没頭する体験とか、ポジティブな面だけを見たら良いんじゃないかなと思うんですよね。

成績表はプラス項目だけで良いよね。

よくある目くらまし感もあるけど、以上の3つの理由を考えたら、やっぱりプラス項目だけで良いよね?

もう一度まとめると、ポイントは次の3つ。

1.マイナス評価を与えて苦手意識を植え付けたら逆効果じゃね?
2.自分が好きな事はガンガン覚えるよね?
3.自己有用感と自己肯定感が得られたら生きるの楽しくなるよね?

・・・という訳で、特に小学校の成績とか、もう「よく出来ました」で何は「頑張りましょう」とかいらないと思いませんか?

成績表が、全部「○の才能あるよ!」「○のセンスあるね!」「○とか向いてるかも!」とかだったら、めっちゃテンション上がるし、得意分野で胸張れるし、学校行くのも楽しくて、勉強も前向きになれて、将来も明るい気がしません?

どうでしょうか。


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過去のボクは昭和の固定観念や慣習に縛られ、自分や家族を苦しめていた事に気付きました。今は、同じ想いや苦しみを感じる人が少しでも減るように、拙い言葉ではありますが微力ながら、経験を通じた想いを社会に伝えていけたらと思っていますので、応援して頂けましたら嬉しいです。