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とんねるず ダウンタウンは二流 型破りな芸風は基本の型が重要

2021年4月16日更新

※本文は編集中の記事ですが読者様の反応を見たいためにあえて公開設定にしています。感想やご指摘がございましたら何なりとコメントでおっしゃってして下さい。また、この記事は 辛口で時事の話題を風刺する美少女youtuberへライザーさんの配信動画に対するコメント投稿文のコピペ(複写)を基に加筆編集したものです。諸事情によりその動画は削除されてしまいましたが、 動画を視聴されていない方にも十分理解できる記事内容となっています。その削除された動画で、へライザーさんの『型』についての主張を私なりの論理的思考で深く考察したところ、表題の結論に至りました。

はいどーも 長文屁理屈おじさんです。

只今 とんねるず ダウンタウンは二流!いじり芸も二流 論破できる奴かかってこんかい!って記事を執筆中です。

とんねるず ダウンタウンファンの 方、不快に思われたらすみません。

いや。とんねるず ダウンタウン すごいやんって 方、その凄さを面白いからという感情論ではなく 論理的に説明して下さい。

その主張に私が納得できれば
へへー と。ひれ伏します。

さて 動画において
へライザーさんは 青少年に対して型破りな才能の発掘を求めるのであれば教育を担う学校が生徒を型にはめるのは 違うんじゃね?と疑問を呈しておられましたが

学門 芸事 武道 型が全てです。

日本人の教育レベルが一定の評価を得ているのはこの型のおかげです。

その型とはなんぞや?

九九です。漢字ドリルです。

理系 文系の基礎の基礎 計算力 語学力はこの2つによってはぐくまれます。

型とは反復です。コピペです。
お手本をひたすら繰り返しマネる。
九九 漢字ドリル まさにそれです。

今はスマホで計算もできるし 漢字も簡単に分かります。

でもね。それに頼って反復&コピペをおろそかにしてしまうとスマホ無しでは なんもできない人になってしまいます。

ちびっこたちは youtubeばっかりみてないで 九九と漢字ドリル をキチンとやりましょう。

ってコメントしてみても、私の知り合いの親御さん。ご自身はへライザーさんの熱狂的ファンだけど 子供には有害指定動画にして視聴させてないからちびっこがこのコメント見るケースはレアでしょうね。

一流アーティストの基礎は学校で全国民が知っているような童謡を親や先生の真似して繰り返しうたったからでそれによって詩という文学的な要素も学べます。

ちびっこがyoutubeで聞いた流行りの歌を歌うというのは それはそれでとがめるべきことではありませんが

教育という点においては 童謡を歌うことのほうが有効かと思います。

プロ野球選手は素振り

プロボクサーはランニング

プロサッカー選手はリフティング

プロスポーツ選手でも基礎的な反復練習つまり型を重視しています。

型の重要性を説いた

『守・破・離』

という言葉があります。

この言葉と教えを編みだしたのは千利休。茶聖と称される芸事のいわば神的存在です。

以下 wikipediaより引用

修業に際して、まずは師匠から教わった型を徹底的に「守る」ところから修業が始まる。師匠の教えに従って修業・鍛錬を積みその型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになる。さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型の双方に精通しその上に立脚した個人は、自分自身とその技についてよく理解しているため既存の型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て自在となることができる。このようにして新たな流派が生まれるのである。

「本を忘るな」とあるとおり、教えを破り離れたとしても根源の精神を見失ってはならないということが重要であり、基本の型を会得しないままにいきなり個性や独創性を求めるのはいわゆる「形無し」である。無着成恭は「型がある人間が型を破ると『型破り』、型がない人間が型を破ったら『形無し』」と語っており、これは十八代目中村勘三郎の座右の銘「型があるから型破り、型が無ければ形無し」としても知られる。

いやあ。流石 千利休。

千利休しか勝たん。

これだけの情報がたったの3文字に込められています。

下手な鉄砲数うちゃ当たる
猫パンチ連打スタイルの
長文屁理屈おじさんは千利休には遠く及びません。

話を戻すととんねるずもダウンタウンも師匠がいないんですよね。

しかしながら、お笑いに対する思考や視点がぶっとんでたから ここまで人気が出たのでは?と思います。

二組の笑いはぶっとんだ芸風であり 刺激が強いのでその刺激に魅力されて多くの人の支持を得ていますが 中には刺激物が苦手な人もいます。

そんな方はマイルドな笑いを欲しています。

例えばナイツ。非常にマイルドな笑いですよね。

それでいて刺激物大好きな方の支持も得ています。

刺激少なめのナイツのバックボーンは落語です。落語の修行は古典落語を反復練習します。そこから様々なジャンルの話を披露するようになり、最終的には創作落語を披露するまでに至ります。それでいて古典落語も披露する。

まさに『守・破・離』ですね。

ナイツのお二人は学生時代に落語研究会に所属されていました。そして卒業後は漫才師を目指すことになるのですがナイツのお二人は内海圭子さんを漫才の師匠としつつ

落語芸術協会にも、所属してそちらでは三遊亭小遊三師匠を師として仰ぎました。

ナイツのお二人方はテレビでお見受けする機会はとんねるずやダウンタウンより少なかったかもしれませんが、日々浅草の演芸場で漫才を披露していました。
これ、即ち型ですね。

一方、とんねるず、ダウンタウンの二組 ネタ披露してますでしょうか?

松本さんがエピソードトークしたりたまにIPPONグランプリでオーガナイザーとしてちらっと大喜利するくらいですよね。

私としてはお笑いのフィールド外のタレントさんらをいじるのではなく、お笑いのフィールド内の後輩芸人の中に飛び込んで 型を披露する比率を増やして欲しいところです。

とんねるず ダウンタウンの二組は格闘技でいうと

ジャーマンスープレックスやバックドロップのような派手な技の使い手で

ナイツのお二人は関節技の使い手だと思います。

前者の技は正統派レスラーとヒールレスラーという決められた役回りを演じるプロレスの世界ではウケがよいですが

純粋な強さを競う総合格闘技の世界でそれを使うファイターはレアケースです。

後者の技はどちらかというとトップレスラーよりも二番手三番手レスラーが使う技ですが、その技がガッチリ決まると会場は盛り上がります。

総合格闘技の世界でもフィニッシュホールドとして多くの格闘技ファンから認知されています。

バックドロップもジャーマンスープレックスも基礎鍛練=型をこなさないとできないと思います。

とんねるずの みなさんのおかげです。ダウンタウンのごっつええかんじ
はコント という型をみることができて 私も大好きでしたが、何故 それを継続しなかったのか?というと

ネタ作りやリハーサルに時間を費やすコント番組より
アドリブで瞬間的な笑いが取れるバラエティー番組のほうが時間効率 コスパがよいのでは?と考察しております。

つまり 最近のとんねるず ダウンタウンの笑いに物足りなさを感じられている方は お笑いのトップランナーを走っている(失礼ながらとんねるずに関しては過去形だと思います。)の型を見たいと言っているのです。

へライザーさんも刺激のつよい派手なスタイルのほうが労せずして動画再生回数が稼げるからそうなさっているんでしょうね。あ、これは評価ですよ。非常に戦略的だという。

ただし、基本刺激強めなのでマイルドさを求めている動画視聴者さんには今回のようなコンテンツのほうが好まれるでしょうね。

へライザーさんの型の手本とされている方はどなたでしょうか?

私がオススメするのは言わずと知れた毒舌漫談家 綾小路きみまろ師匠です。
師匠のバックボーンは司会業です。
元々はキャバレーの司会業をしており、森進一さん小林幸子さん伍代夏子さんといった演歌歌手の地方公演の専属司会者を勤めていました。そこから漫談家を目指すこととなるのですが
自分をセールスするために自分のネタを吹き込んだカセットテープを高速道路のサービスエリアにおいて中高年の団体旅行客をターゲットに定めて配りまくったというものすごいマーケティングテクニックをつかっていたのです。
そんな師匠の毒舌には愛があります。公演会場に訪れた中高年の観客をいくらけなそうがそれを腹立たしく思う方は皆無で皆さん大爆笑。それは師匠が毒舌の対象であるそういったファンの方達を心から愛しているからです。
親が年端も行かない子供からばかぁと言われて叱る親はいるでしょうが、子供を嫌いになる親はいないでしょうし ばかぁといった子供も親を嫌いにはならないでしょう。

毒舌 は 愛と絆がセットで初めて成立します。愛のない毒舌など横柄な者の批判に他なりません。

議論討論も同様です。相手を論破することに注力するだけでは自身の理論構築が磨かれません。相手の反論から自分の理論を検証して
その品質を高めるのが本来の議論の趣旨です。

だから 私は自分の主張が100%正しいとは思ってませんし へライザーさんの主張やその賛同者の方達を

はい、論破っ!したい訳でもありません。

さて、

ここまでとんねるず と ダウンタウンについてかなり辛辣な批評を下から目線でさせて頂きましたが、この記事では面白いか?面白くないか?爽快か?不快か?という 個人個人で基準の異なる感情的思考を一切廃して客観的かつ論理的思考で とんねるずとダウンタウンを考察しています。

感情論で言えばこの二組は超絶面白いです。腹を抱えて笑うときもあります。

エンターテイメントはいわば嗜好品なので面白さという感情的思考に基づく判断で とんねるず ダウンタウン ナイツ の優劣を決める行為はテキーラ ウォッカ マッコリ どれがイチバン うまいの?っていう論争と同じで決着がつかないんですよ。イチバン売れてる酒がうまいんかいって話になると同じ銘柄のビールでもお部屋でひとりぼっちで飲むビールと気の合う仲間とワイワイガヤガヤ飲むビールでは後者のほうが格段に美味しいですよね。それに刺激強めのお酒が好きな人がいたり マイルド系が好きな人がいたり中には酒はまったくダメって人がいたり…つまり味の好みはひとそれぞれでケリがつきます。

しかしながら、この記事の表題で二流と論じたのは 上には上がいるということが言いたかったのです。

この二組の上の芸人 芸風とは どういった方、どのようなものか?人物でいうと 故・桂歌丸師匠です。芸風でいうと、知性や論理的思考に訴えかけるものです。

歌丸師匠と某政治家のやり取りで次のような件がありました。

存命の頃 歌丸師匠はよく笑点で政治家を風刺するネタを披露していました。それを快く思っていなかったとある政治家が、偶然歌丸師匠とはち合わせた際に

あまり政治家を馬鹿にしなさんな。と歌丸師匠に忠告したそうです。それに対して歌丸師匠は

おまえさんも国民に馬鹿にされるような政治をしなさんなよ。 と返したそうです。

これ程ウィットに富んだ言葉を、縁故のある番組スポンサーを顎で指図して圧力をかければ対象者を芸能界から抹殺できる権力を持っているかもしれない政治家相手に即興で出せたのは歌丸師匠が一流の芸人たる証です。

そういった歌丸師匠のバックボーンには旧体制的にも思える落語の師弟制度があります。それはまさに 前述の千利休の教え『守・破・離』の実践を行っています。

とんねるずの自身よりも芸歴が上のタレントの方をいじる芸は両者の合意のもとに行われている笑いであり、そこにウィットも何もありません。ダウンタウンの浜ちゃんが大御所をドつくのも同様のことが言えます。

この二組がターゲットにするのは論理的思考を得意としない対象です。大御所いじりが得意な二組が両者の合意なしで歌丸師匠にそれを仕掛けたとしたら 果たしてどうなるでしょうか?

私はとんねるずもダウンタウンもその功績は認めていますがこの記事の表題の通り一流かといわれればそうとは思いません。

何故なら人の本能的欲求を満たしているに過ぎず

倫理的な欲求を満たしてはいないからです。

ドラマ 半沢直樹がなぜあれほどの視聴率を得ていたのか?それは判官贔屓 勧善懲悪 柔よく剛を制すといった弱肉強食の本能的欲求に反する日本人の倫理感に訴えかける作品だからではありませんか?この作品は本能的欲求を持つ者にも満足感を与えたのではないでしょうか?

故・桂歌丸師匠のエピソードも同様 倫理観に訴えかけ論理的な思考を持つ者にも本能的な欲求を満たしたい者にも満足感を与えます。

私は本能的思考と倫理的思考の優劣を論ずるつもりは ありませんし、本能的判断力を一概に卑下したい訳ではありません。

本能的な思考は時と場合によって許容され それを制御するのが倫理観であり 論理的思考です。

差別偏見は平均値と異なる対象へ違和感 不信感を抱くといった 生存本能に基づく思考・行為です。

それは 自身や同族 共同体の生命や利益を守るための本能的な行為です。

本能的行為が許容される条件とは

たとえば拾い食い。いくら空腹でも金銭的余裕があればそのような行為はしません。

しかし、山の中で遭難して二週間も飲まず食わずで過ごし、地面に食料が包装もされずに落ちていたら迷わず食べます。

男女の秘め事も同意がある者同士で密室空間で行われるから許される行為であり、互いの同意なしに開放的空間でそれを行えば牢獄行きとなります。

通勤 通学時は決められた時間に起きますが

休みの日はいくら惰眠を貪ろうが罪悪感はありません。

人間の本能的な三大欲求も許容される条件を論理的倫理的に判断して満たそうとします。

本来 本能的・感情的な思考に基づいての判断は大損する可能性が高いです。

たとえば忠臣蔵。

大石蔵之介はプライドを傷つけられたという怒りにまかせ公の場で吉良上野介に切りかかり、結果 自身は切腹 赤穂浪士はリベンジを果たすも切腹

大石蔵之介が論理的な判断をしていれば、その場はこらえて吉良上野介の身辺調査など緻密な策を練り、刺客を雇い暗殺したことでしょう。

ストーリー展開として オリジナルストーリーと私の創作ストーリー、どちらの結末が大石蔵之介の最良の選択でどちらがスッキリしますか?ただし、これらは虚構の世界だから許されることであり、現実社会において、プライドを傷つけられたらからといってその相手に危害を加えることは倫理的に許されません。 

相手に危害を加えることが許されるのは、その相手が自身の生命を脅かそうとした時です。暴漢に襲われそうになったときに偶然にも武器となりえる傘を持っていたとします。その相手が飛びかかってきたときに自分は手に持っている傘で威嚇するでしょう。それでも尚暴漢が自分に危害を加えようとしたとき、他人に危害を加えてはならないという倫理観より生存本能が勝るのです。これは法的整理にも倫理的にも許される行為です。

何故原作ストーリーで大石蔵之介が暴挙に及んだかを考察すると、吉良上野介に自身のプライドを傷つけられ悔しいという感情を、自身の精神的な部分が傷つけられたのにも関わらず極度のストレスから肉体的に傷つけられたと錯覚し防衛本能で懐刀に手を添えたものと思えます。

私が本能的思考や感情的思考に基づく判断を是とする方に主張したいのは

本能的・感情的な判断を論理的判断より優先すると損をする、そして論理的判断を行う前提としと倫理観が大切であるということです。

前述の大石蔵之介の創作ストーリーの通り論理的判断ができる者が 本能的・感情的欲求を満たそうとするとき、論理的な行動をおこします。大石蔵之介の 本能的・感情的欲求とは、吉良上野介を殺めることであり、論理的判断とはその場は憎悪という感情を抑えること。論理的行動とは吉良上野介の身辺調査と暗殺です。

基本的には本能的な判断に基づく行為は大損しかねないのですが、本能的欲求を満たすために論理的な行動を取ると倫理的に是とは言えない目的の達成が図れてしまいます。

それがいじめや人種差別 侵略戦争 植民地支配です。

なので、論理的思考を行うにしても その前提である何を目的 対象として行うかが課題となります。

コンプライアンス強化により お笑いがつまらなくなったという方に対して言いたいのはルール変更に対応できないタレントは一流とはいえない ということです。

そしてお笑い芸人を始め その他タレントが自身のフィールド内で活躍する限り基本的に論理的思考は求められません。多くの観衆や視聴者はエンターテイメントにそれほど論理的な欲求は求めておらず、彼らに求められるのは異質です。平均値と異なる容姿 思考 性格 まさにマイナス値に傾くと差別となる対象です。

平均値がマイナスに傾くと差別となり

プラスに傾くと特別となるのです。

容姿において 平均値よりもプラスに傾いている対象に抱く違和感・拒否反応とは 緊張です。

このような平均値の大きなブレである異質は先天的な要素が強く

平均値のブレがない芸人やタレントがその支持を得るために必要なのは論理的思考です。

多角的な視点から芸と向き合うので、いわゆる器用なタレントがそういった思考の持ち主です。ボケ ツッコミ両方できたり、自身でネタを考えることができる芸人です。

俳優でいうと主演だけでなく、助演でも善人役でも悪人役でも映画でも舞台でもミュージカルでも活躍できる方になります。

youtubeで情報発信するオリエンタルラジオの中田敦彦氏やクイズ番組で活躍するロザンの宇治原史規氏はインプットの量に関しては目を見張るものがありますが、インプットした情報をそのままもしくは簡略化してアウトプットしているだけであり、論理的思考を有しているかについては解りかねます。

統計上高い支持を得た結果や対象が最良であり、正しいとはかならずしも言えません。でなければ日本はもっとましな政治家が指導者になっていたはずです。

第87・88・89代内閣総理大臣小泉純一郎氏が有権者の支持を得たのは感情に訴えかけるその演説スタイルであり、それに反応した有権者が感情的な判断の基 自民党公認候補に投票したということになります。そして郵便局幹部との個人的な遺恨で結果郵政民営化を推進・達成したといわれています。郵政民営化を含め小泉政権時の政策の負の側面については別の機会に論ずることに致します。

話が脱線しましたが統計において、感情的な判断基準で選択した意見の総和は最良の結論にたどり着けません。論理的判断基準で選択する者の比率が高まる程最良の結論に近づくことが可能です。

ということで、視聴率が高い番組に出演しているタレントが必ずしも優れているとは言えません。何故ならテレビのチャンネルを選択する判断基準は殆どの視聴者が感情的判断に基づくものだからです。

とんねるずとダウンタウンの二組にこれまで辛辣な評価をしてきましたが、感情的判断に基づいて芸風を考察すると間違いなく面白いです。時には腹を抱えて笑うこともあります。そして私はこの二組に対して敬意を表する点があります。

それ共同体意識と愛国心です。今の日本人にとって失われつつあるとても大事なものです。

まずはとんねるずが大切にしている共同体意識から解説させて頂きます。よくとんねるずが揶揄されるのが身内ネタが多いという点です。しかしそれは普段影の功労者たる番組スタッフにスポットライトを当てるという既存のお笑いタレントの芸風とは一線を隔すものでした。とんねるずは番組スタッフを仲間と意識しているのです。仲間としての絆があるからこそスタッフへのパワハラとも受け取れる演出を平然とやってのけるのです。そのお約束という点を理解していない視聴者は不快に思う訳です。とんねるずのパワハラ芸と揶揄される演出は映画やドラマにおける暴力シーンと何ら変わりはありません。

過激なバラエティー番組の問題点は、すべてお約束の上での演出であることを明示していない点です。番組の冒頭で

この番組では過激な演出が含まれています。ご視聴の際にはご注意下さい。

番組の終わりに

この番組の演出はすべて出演者の同意の基行われています。

といったアラートを表示すれば、倫理など無視してもっと過激な演出が可能です。なぜなら、フィクションの世界では殺人までもが許容されるからです。

過激な演出のバラエティー番組の問題はこれにて解決可能です。

とんねるずの仲間意識・共同体意識に続いてダウンタウン、特に松本人志さんに対して私は強い尊敬の念を抱いています。まずは、既存のお笑い芸人との思考の異質さ。ネタが滑ったときの寒いという言葉は松本さん発祥なのです。デビュー時のダウンタウンの芸風は大御所先輩芸人も認める所があり島田紳助さんに漫才の舞台から退かせる決意をさせた程です。私は感情的にダウンタウンの芸を楽しんでいるのでその芸に対する論理的な考察は不得手とするところです。

松本さんへの強い尊敬の念の二点目は愛国心です。私が四の五の言うよりも
2005年9月4日放送 TOKYO FM『松本人志の放送局』(第206回)の内容の動画をご覧ください。

いかがでしたか?ここまで戦争について突っ込んだ意見を述べたお笑いタレントの方はいらっしゃらないのでは?いや、お笑いタレントはおろか、日本の芸能界広しといえど松本さんだけではないでしょうか?

私の主観としては、アメリカ人は日本人同様正しい近代史を学んでいない為、このような統計結果となったと考察しています。正しい歴史観を持ったアメリカ人のみをアンケートの調査対象としたら回答結果は異なっていたでしょう。



…案件が山積しておりまして中途半端ではありますが このテーマについての記述は一端休止します。

お笑いの人気とは?お笑いのクオリティーとは?
様々な観点から とんねるず ダウンタウンを考察すると あと4000文字は必要なので

今日のところはこの辺りで。

どなたか 型にはめるなんて おもろくない

とんねるず ダウンタウン は 論理的に説明すると このような点が素晴らしい

とおっしゃりたい方どしどし返信下さい。

私が単なるへライザーさん とんねるず ダウンタウン アンチでないことはご理解頂けましたか?

へライザーさんが 提議した 型 という二文字に対してこれだけの長文を時間をかけてとんねるず ダウンタウンも絡めて深掘りするということは それだけ三者に敬意を払っているからに他なりません。だから 屋号であるコンビ名以外 著名人の方達に敬称をつけます。無論、私のコメントに返信して下さる動画視聴者様にも。

私のほうがもっとへライザーさん とんねるず ダウンタウンのことを支持しているという戦闘員の方は私以上の長文と屁理屈で返信をして下さい。
私はその行為に敬意を評し、それ以上の長文と屁理屈で返信させて頂きます。

ってことー。

©️へライザーさん

以上が、へライザーさんの動画に対する私のコメント投稿文の複写を基に加筆編集したものです。

コメント投稿した後にへライザーさんの別の配信動画に綾小路きみまろ師匠の画像がネガティブな目的ではなく さりげなく使用されていたので、推定20歳前後の年齢にも関わらずきみまろ師匠のことは認識されているようです。

へライザーさんの動画コンテンツについては脚本家が存在する説がささやかれていますが、私はへライザーさんをエンターテイメント=虚構と捉えています。なにより へライザーはご自身をファンタジー系と称されています。エンターテイメントである以上、へライザーさんが主演兼脚本担当 だろうが そうでなかろうが あまり気にする必要はないと思います。

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