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新天地とは

 新天地を求めて旅立った者が見つけたものは、新しい発見なのだろうか?

 それは、あくまで、新しいものではなく、その者にとって初めて知るものであり、もともと存在しているものではなかろうか。

 なんてことを考えたのは、特に理由があるわけではないけれど、

 偉そうに講釈を垂れる人の顔を見ていて、あー、きっと昔に新天地を発見した、なんて言った人も、もともとそこに住んでいる人のことなんて考えてもいない偉そうな人なのかしら、なんて想像をしたからだ。

 実際にはどうかわからない。

 相手の立場に立ってものを考える、というのが想像以上に難しいならば、きっとそんなこともあるかしら、というくらいなものだ。

 私は、新しくリーダーとなった人の、これまで取り組んできたことをこれでもか、というくらい崩して「前のやり方」に固執しているこの現状に、少なからず辟易していた。

 私自身、ここに勤めてから一年と経っておらず、そこまでここのやり方に精通しているわけでもなく、むしろ働きやすければなんでもいいのだけれど、こうまで複雑に、煩雑に、まったく持って働きやすさとは無縁のただのこだわりに賛同できるようなものではない。

 事件は、この人がリーダーになってからわずかひと月で起こった。

 ーーいや、事件というのは大袈裟かもしれない。

 けれど、それが起こったばっかりにその人は辞めてしまった。

 ことの顛末はこうである。

 ある利用者の食事介助について、おそらく前々から思っていたのであろう、例の、こうあるべき、が発動しては止まらない様子であった。

 しかし、それは、あまりに無理なことであった。

 たしかに、誰がどう見ても、疑問を感じてしまうのはわかる。けれど、もう、それで何十年とそうして食事をしているほうにとっては、いまさら変えるほうが危険であろう。

 詳細は省こう、しかし、それを受けた利用者のほうがまず、黙っていなかった。職員が代弁をし、また言葉が返ってくる、の繰り返し。

 いよいよ、職員のほうが立ち上がって、

「では、なぜ、そうでなければ、ならないのでしょうか? それは、なんのために、誰のために、そうするべきなのでしょうか? この件だけではなく、聞きたいものですが」

 そうして返ってきた言葉は

「当たり前に、食事をする姿勢として、そんなに危険なことはない、そんなこともわからないのか? 誰のために、決まっている、利用者のためだ」

「では、なぜ、その利用者が、このほうがよい、という言葉を聞き入れないのでしょうか? 当たり前、とおっしゃいましたが、それは誰にとっての当たり前でしょうか。今、この、姿勢が、彼女にとって当たり前の姿勢であって、食事をするスタイルです。杓子定規にすべて同じと決めつけて、自分が正しい、とお思いにならないでください」

 私は思わず拍手を送ろうとしてーーカッとなったそのリーダーが改めて何かを言う前に、上司がやってきた。

 言い分を聞く前に、すぐさま別室まで二人を連れて行く。これは後で聞いた話しであるが、二人とも平等に注意されたらしいが、それはあくまで、利用者の前で口論をしていたこと、当人の前で当人について話していたこと、についてであって、内容のことではなかったらしい。

 その後に、改めて話しを聞いた上司は、

「二人の話しはわかりました」

 と伝えると、そこで何かを結論づけずに、職員を部屋に戻し、リーダーだけをその場に残した。

 そこで、何を話していたかはわからない。けれど、結果としてその人は次の日には辞めてしまい、伝えられたのは、二人が注意された内容の周知のみであった。

 その人は、次の、新しいところでも、同じようなことをしてしまうのだろうか。

 新天地、だと思っていた場所は、なんてことはない、その人にとって新しい未知なるところであったとしても、もともとそこにいる者にとってはそれこそ当たり前の、日常を過ごすところである。

 そんなことを知ろうと、思おうとしなければ、何にもならない。

 私は改めてそんなことを思いながら、今日もここにいる。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。