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浮気のボーダーラインはツバメが知る

ひとりの女性との出会いによって人格や思想が変わり、その結果人生を変えることになるということはよくある

僕の周りでもそんな男はたくさんいて、良くも悪くも「こいつ変わったな」と思わされることが多い

村上春樹の『国境の南、太陽の西』という小説を読んでそう考えた


実際に僕もそういった経験がある

はじめに言っておくと、僕は初めてできた彼女に浮気をされたことがある

約1年と半年ほど付き合っていたのだが、僕は突然LINEで彼女に別れを告げられた

その時の記憶は明確に残っている

僕は大学の8号館7階でつまらない経営学の講義を受けている時だった

横では友達が机に突っ伏して眠っており、僕は講義を聞きながら昼食に何を食べようか考えていた

ポケットの中のスマホがブブッと振動し、取り出して画面を見ると当時の彼女から「ごめん、友達に戻りたい」というなんとも簡潔でありながら身勝手で残酷な文字が浮かんでいた

はじめはその言葉が意味することが分からなかった

まだまだ恋愛経験が浅く『君に届け』や『アオハライド』のようなキラキラしている作品に自分を重ねていた僕が、それが別れの言葉だと理解できたのはその10分後に時間差で届いた「別れよう」の四文字を目にしてからだった

人の体は正直なもので、僕はそんな挫折や喪失感にも似た衝撃を受けても空腹であることには変わりなかった

今思い返すと恥ずかしいのだが、僕はその日の夜に彼女と電話をし、彼女との出会いや2人で共有してきた思い出を時系列に沿って振り返るように話した

過去の楽しい思い出を振り返ればきっと彼女も考えを変えてくれる、もう少し自分と向き合ってくれるだろうと期待を抱いてそんなことをしたのだが、彼女が下す決断は一貫して変わらず「別れたい」というだけであった

彼女と2人で均等に積み重ねていると考えていた愛は、知らない間に僕の手だけで重ねられており、徐々にバランスを崩して偏ったものになっていた

そして彼女が愛の偏りに耐えられなくなり、不安定な愛にそっと触れ、崩壊させた

これまた恥ずかしいのだが、僕はその時「絶対に別れたくない」の一点張りをして、とにかく予定していた映画デートは一緒に行きたいとほぼ強引に決めた

結果として、僕はその最後のデート後にLINEで「分かった、別れよう」と別れの承諾の意味を込めた言葉を彼女に送り、別れることになった

別れの承諾に対して彼女から「ありがとう」と、ひとことだけ返信があったが、その感謝の言葉は僕を救うものでは無かった

ちなみにデートで観た映画は当時大ヒットした『君の名は』だった

劇中に流れる『スパークル』という曲の歌詞にある「さよならから一番遠い場所で待ち合わせよう」という言葉は、僕から一番遠い場所にある気がしたのを覚えている

浮気をしていたことが分かったのはフラれた後である

なぜ彼女が浮気をしていたことが分かったかというと、それはとても簡単なことなのだがインスタグラムの投稿であった

彼女の家ではないどこかの家で撮った料理の写真や、知らされていない花火の写真が投稿されており、これは誰と言ったのかと問うとひどく呆気なくバイト先の男だと自白した

もはや自白、というのも大袈裟なほどあっさりした回答だった

彼女の高校時代の友達に聞いてみると初めは「あの子がそんなことする訳ない!」と言って彼女に確認してくれたのだが、その後僕には何も教えてくれなくなった

沈黙が意味する答えは明確だった

その後彼女と会うことも連絡を取ることも無く、もちろん「友達に戻りたい」という僕に対する実質的戦力外通告に被せられたオブラートはどこか遠くに吹き飛ばされていた

彼女がその男と付き合ったのかどうかは知らないが、今思えば僕が浮気として勝手に捉えただけで彼女としてはただの友達付き合いだったのかもしれない

まだ純粋で少女漫画の恋愛を教科書にしていた僕は浮気というボーダーラインが雨の予兆を知らせるツバメの飛行ぐらい低かっただけかもしれない

その考えすぎで心配しすぎな浮気への思い込みが結果的に僕の心にスコールを見舞うことになったのは言うまでもない

だが僕は真実は分からないにしろ「浮気をされた」ということを真実だとして受け入れることに決めた

理由は簡単で、浮気かどうかは受け取った人が判断する事であり、また、浮気をされたと捉えた方が振り返った時や人に話すときに笑いとして消化できるからだ


冒頭の話に戻るのだが、僕は彼女のおかげで「あぁ、女の子ってみんな浮気するんだな」と悟ることになったし、正直今もその考えは変わっていない

失恋を経て僕が得たものは歪んだ恋愛思想だった

そんなこと無いという反論は重々承知だが、これはもう決して作り変えることも取り消すことが出来ない僕という人間の中に確立された自我の一部なのである

その経験がきっかけか、そもそも僕の性格が元からそうであったのかは分からないが、僕はその後世間一般からするととても普通では無いとされるような恋愛や性体験を迎えることになった

「浮気されたせいにして自分を肯定するなよ」と言われるかもしれないが、その経験や僕の中に生まれた感情は紛れもない「ほんとうのもの」であり、仕方が無いことである

今の僕はそのような経験を巡りに巡って辿り着いた僕であり、そんな僕はひどく欠落したクズ人間かもしれない

僕の友人達は笑いやノリの流れもあって『お前が狂ったのは浮気されたせいだ』と言うが、たしかにと納得する反面、そんなひとりの女性との経験だけで性格なんて変わらないだろうという反発の感情も少し生まれる

しかしその反発の感情も、結局は「自分の欠落した部分に気付いていながらもただ目を瞑っているだけ」の感情に過ぎず、欠落した自分も、あるいは欠落したという事象自体が僕なのである

全てを受け入れた結果、こうなったのだ

念の為言っておくが、僕はその経験については一切後悔していないし人生の汚点だとも考えていない

当時はたしかにひどく傷付いたし、彼女に対する憤りもあったがもうとっくに過ぎたことである

むしろその時に浮気をされるという貴重な経験をできたことに感謝していると言っても過言ではない

「浮気についてやけに肯定的だな」と思うかもしれないが、それについてはまた別の機会に綴ろうと思う


『国境の南、太陽の西』に登場する主人公は村上春樹作品の中では少し変わった一見幸福に思える境遇にある

「僕」は一人っ子という育ちに不完全な人間という自覚を持ちながら、成長と共にそれを克服しようとする。義父の出資で開いた「ジャズを流す、上品なバー」が成功し、二人の子供を授かり、裕福で安定した生活を手にするが、これはなんだか僕の人生じゃないみたいだなと思う。そんなとき、小学校の同級生だった島本さんが店に現れる。
国境の南、太陽の西

元々は『ねじまき鳥クロニクル』の執筆中に省かれた章を再度書きまとめたものである
※『ねじまき鳥クロニクル』もかなり面白いためおすすめです

主人公の歪んだ愛に共感でき、ひとりの女性との出会いによって感情が揺れ、崩壊し、欠落していく過程が生々しい心理描写によって綴られているこの小説は大好きな一冊になった

身勝手で正直過ぎる誠実さ(あるいは自己愛)が招いた結末の先に見える男の脆さは思わず目を背けたくなるほどリアルであるが、それに共感できた僕もある意味既に欠落した男なのかもしれない

たとえそれが自分にとって良いことなのか悪いことなのかは抜きにして、ひとりの女性によって俺は変わったかもしれない、という経験があるできればまだ若い人にぜひ読んでほしい

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