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オリジナルを創る

 以下の無銘さんとのスペースを聴き直していて「おっ」と思うところがありました。

 このスペースで、「技法などは洗練され過ぎて完成してしまうとその後は退化してしまう」という話題が無銘さんからありました。
 その意味は、武術の流派や伝統芸能のお家芸や宗教の宗派などにおいて、その体系を継いでいこうというモチベーションは「より洗練させよう。より改善しよう」という意欲があるからこそ保たれる。しかし、どこかの段階でそれ以上工夫の余地がないところまで完成されてしまうと、その後に続く人はそれをただ模倣するしかなく、学び取ってより良いものにしようという意欲が失われるので退化していくしかない、というお話でした。
 この話はなかなか考えさせられる話題だなと思いました。

 このスペースの後、個人的に無銘さんとお話したとき、「髙橋さん独自のものを作られてはどうですか?」という意味のことを言われました。
 その話題が出た流れとしては、私が信仰深い人たちの境地に憧れるので私も深い信仰を持ちたいと思いつつも、しかし信仰というのは自分の意志でどうにかなるものでは無いので、そこが難しい、という話をしたところ、無銘さんからある人が「教祖自分、信者自分1人の宗教を作って信じられればそれでいい」ということを言っていたという話を紹介されたというものでした。
 つまり、今ある既存の宗教なり思想なりの体系を信じるのではなく、自分にとって納得できる宗教なり思想なりを創造し、それを自分自身が信じるという方向はどうか、ということでした。

 この提案は私にとって非常に新鮮でした。
 私は様々な武術や宗教の場に顔を出していおり、その経験はおそらく一般の方より多いと思います。そしてそれぞれの場において、一流と言える方々にもお会いしてきたと思ってます。
 私が今までその方々に対して接していた態度は、「このすげー人たちの良いところを真似しよう」というものでした。私の目からすると、その方々の披露する技や至った境地というのは完成されたものであったので、私がそれ以上工夫する余地が無いように見えたからでした。
 つまり、最初の話題で言うところの体系を退化させてしまう人たちの態度だったわけです。
 それぞれの既存の体系を学ぶというのは既存の体系に私を寄せていく、という方向性であり、それもモノを学ぶという過程において大事ですが、最後までその態度だと劣化コピーにしかなりません。
 しかし、それらを学び参考にしつつも、最終的には自分自身が納得できる体系を創る、というのをゴール地点に置いておけば、既存の体系で納得できない部分については自分が納得できるように改良する、という意欲が湧くので、学ぶ過程にも今までより熱心に取り組めるようになると思いました。

 私のオリジナルのモノがどういう形のものになるのか、私にもまだよく分かりません。
 私が生き方の根本に置いているのは(上座部)仏教です。それは思想的な面でもそうですし、瞑想という実践方法においてもそうです。なので、仏教は私のオリジナルのモノに最も強く関わるものになるでしょう。

 また、身体技法にも関心があります。
 私は今、肉体労働を仕事にしていますが、それは私が肉体労働にやりがいを感じているからです。デスクワークも9年間しましたが、やはり身体を使って仕事をする、ということに私はやりがいを感じます。
 それに自分の人生に目を向けるきっかけが甲野善紀先生であったこともあり、武術や身体操法についてはそれなりに学んできた過程があります。そのため、武術や身体操法も関係させたいです。

 さらに、このnoteを書き続けていくことで気づいたことですが、私は思考・思想を文章に言語化することに非常に強い拘りがあります。言語化することが私の心の整理にもなっているし、言語化された文章に私は愛着というかアイデンティティを感じています。そのため、この「言語化」ということも関わらせたいと思います。
 
 ただ、環境改善活動については、これは現時点では私のオリジナルのモノに関わらないのではないかな、と思っています。
 というのも環境改善活動は私のオリジナルのモノを創った上で実行する具体的な行動、という気がするので、それ自体がオリジナルのモノに組み込まれる種類のものでは無い気がしています。今後変わるかもしれませんが。


 ということで、私のオリジナルのモノは「仏教(瞑想)」「身体操法」「言語化」という要素を組み合わせた何かになるでしょう。それは「髙橋教」というものか「髙橋メソッド」というものか「髙橋学」というものか、呼び方は何でも良いしどういう分類に区別されても良いのですが、私にとって最も納得できるモノを創りたいです。
 敢えて大仰な表現を使うとすれば、それによって私が救われる「何か」を創りたいです。

 今言葉にしてみて改めて気づきましたが、私は本当は「自分自身を救いたい、自分自身が救われたい」と思っていたようです。いろいろな宗教や身体技法のワークショップなど参加していたのは、そこに私を救ってくれる何かがあると思っていたからでしょう。
 もしかしたら私の知らない何かの体系が、私を「救ってくれる」かもしれませんが、今はそれより、自分で自分を救う何かを創りたいという思いが強くなっています。
 自分が美味しいと感じる料理は、料理がある程度できるなら自分で作るのが一番早いです。自分の好みの味付けは自分が一番知っているのですから。
 同じことで、自分が一番納得できる、救われる「何か」は自分で創るのが一番早いのです。私は「それ」を創り上げる素材は、いろいろな場から既にいただいています。まだまだ学ぶことはあるでしょうが、最終的に納得するものを創り上げるのは他ならぬ私自身です。素材を集めるだけの段階は既に過ぎ、これからは自分が納得できる「私を救う何か」を創り上げる時期に来ているのだと思います。

 私が求めていた方向性がより明確になった気付きでした。


 本日は以上です。最後まで読んでくださりありがとうございました!
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