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私の尊敬している人②

 私には「尊敬している」と言える方が世界に3人います。
 そのうちの一人は以前記事にしたシスターですが、今回はもう一人の尊敬している方のお話です。その方は古武術を主にした身体操法の研究家、甲野善紀 先生です。

 
 簡単に甲野善紀 先生について説明すると、古文書に記されているような超人的な身体能力を持つ昔の武術家の動きを参考に、現代のスポーツ科学とは全く異なる角度から人の身体の動きについて研究されている方です。古い話ですが、巨人軍だった桑田真澄 投手が甲野先生と出会って甲野先生の身体操法を取り入れることで、手術などの影響で下り坂だと言われていた評判を跳ね除け復活した、という話もある方です。


 私が甲野先生に初めてお会いしたのは大学4年生の時、福山市で行われた講習会でした。
 当時の私は部活で弓道をやっていました。引退はしていましたが、後輩への指導もしていたことから、もっと自分の身体の使い方をより良くさせたいと思っていました。そのトレーニングの一つとして「動く骨(コツ)」というのをやっていたのですが、そのトレーニングの指導者の栢野忠夫 氏が自身よりも数段上の動きを体現されている、と評価していたのが甲野先生でした。
 その話を聞いて甲野先生に興味を持ち、調べてみると近い日程で福山で講習会があったので参加してみたのでした。

 甲野先生は常識では考えられない動きを見せてくださいました。当時のものでは無いですが、youtubeに動画があったので載せてみます。

 この講習会で私は甲野先生に興味を惹かれて、甲野先生の講習会にたびたび通うようになるのですが、私が甲野先生に惹かれた理由はその身体操法の技が優れていたからだけではありませんでした。

 甲野先生本人がたびたび言及されていますが、甲野先生が武術の道に入られたのはある命題を身体を用いて探求しようと考えたからでした。
 その辺りの機微について、甲野先生は以下のように述べています。

私が武の道に進んだキッカケが「人間にとっての自然とは何か」という事であり、「『人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である』という二重性こそが、この世の真実だ。だから多くの宗教には予言と同時に個人の努力も説いているのだ」と、21歳の時に気づいたことが、その後の私の人生のすべての原点なのですから、当然宗教と無縁である筈はないのです。

無縁である筈はないですが、私はすでに在る何らかの宗教に入るとしたら、取り敢えず自分はよく分からないなりに、その何かを信じるという事をしなければならないわけですが、その事に対して私はどうしても自分自身を欺いているような気がしてならなかったのです。
(中略)
その当時、すでに「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」という事に関して、まったく揺らぐことのない確信がありましたから、この世界全体を統御している「ある流れ」と言っていいかどうかは分かりませんが、単なる偶然で世界が転がっていっている訳ではない事は疑う余地のない事でしたし、ですから、

「その偶然などということは何一つないということが疑いようのない事実であり、シナリオは決まっているのだけれど、同時に自由であるとは一体どういう構造になっているのか? その事を解き明かしたい、いや理論的に解き明かすという事は不可能だろうから、その言葉にすると矛盾してしまう二重構造を感覚的に、まるのまま呑み込んでしまいたい。そして、そのためには本来なら宗教が最もその探究に向いているのかもしれないが、最初から取り敢えず実感もないまま何かを信じるという事が、私にはどうしても出来ないので、嫌でもその事を考えざるを得ないような場に、私を追い込むことにしよう」

と考えて、かねてから私自身興味はありましたが、人見知りであったため、とても習いに行く勇気のなかった武道を学ぼうと考えたのです。

プレタポルテby夜間飛行「対話・狭霧の彼方に--甲野善紀×田口慎也往復書簡集(2)」

 つまり甲野先生は「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」という、非常に抽象的な問いを探究するために武術研究の道に入られたのでした。
 私はこのことに非常に強い衝撃を受けました。

 みなさんにも心当たりがあるかもしれませんが、私は思春期の頃、中学生から高校生くらいの間、「私はなぜ生まれてきたんだろう。私が生きる意味はなんだろう」という疑問を持っていました。その問いを持って学校の先生と話をしたり、哲学や精神分析の本を読んだりしましたが、その問いを深めることは当時の私にはできませんでした。
 そして大学に入り、部活が忙しくなったころから、そうした抽象的な問いを考えるのを辞めてしまいました。「こういう問いを持っていたところで、現実社会で生きていけない」という思いもあったかもしれません。

 しかし、甲野先生は、当時50代後半だったと思いますが、その抽象的な問いを21歳の頃から何十年も探究し続けていらっしゃいました。
 私はそんな抽象的な問いを何十年も探究し続けている姿に衝撃を受けました。「こんな生き方があるのか!」と雷に打たれたようなショックを受けました。そして、「この人は今後どんな人生を歩むのだろうか。この人の探求している問いはどのように深まっていくのだろうか。それを見届けたい」と思い、甲野先生の関係するイベントに積極的に参加するようになったのです。
 甲野先生が交流している方々も、やはり人生の問いを探究している方々が多いので、甲野先生を追っていくうちにどんどんマニアックな世界に入り込んでいきました。そして私が上座部仏教と出会ったのも、甲野先生のイベントに参加して聞いた話がきっかけでした。

 甲野先生の講習会に参加することで、私はどんどん甲野先生に惹かれていきました。甲野先生の技は私には難し過ぎて、一つとして習得できるものはなかったですが、甲野先生の生きざまを見るのが楽しくて講習会に参加していました。
 甲野先生はいつの講習会でも最新の気づきによって発明した技を喜々として披露してくださいました。60歳になっても、今や70歳を超えていますが、毎回「新しい気付きがあった」と新しい技を開発されます。
 私はその姿に「何歳になっても成長することができる」という希望を感じました。そして、生涯を通じて「人間にとっての自然とは何か」というような抽象的な問いを探究し続けることができるのだ、というモデルを見せていただきました。
 さらに、甲野先生の姿をずっと見ていたことで、いつしか私も「甲野先生のように生きることの本質的な問いを深めることを人生の主軸にして生きたい」と思うようになったのでした。


 私が大学を辞めてタイにまで行ったのも、直接的には当時の苦しみからの逃避という理由はありますが、それで出家しようという行動にまで至ったのは甲野先生が何歳になっても自分の中の根本的な問いにまっすぐ向かっている姿を見続けてきたということも関係していると思います。
 私は出家しようとして辞めて帰国したり、高森草庵で一年過ごしたり、林業しようと縁もゆかりもない島根に行ったり、人から見ると行動力があるように見えるそうですが、私がそうした思い切ったことをできるのは甲野先生の姿をずっと見てきたからだと思います。甲野先生は「自分が納得できる方向に進むためにはどんなことでも実行していく」という姿で何十年も生きてきており、その迫力というか凄みは長年甲野先生を見てきて常に感じていました。
 甲野先生のやってきたことに比べると、私がやってきた行動は(主観的には)たいへんちっぽけなものであり、だからこそ私は何の気負いもなく行動できたのだと思います。「甲野先生があれだけのことをして生きてるんだから、それより遥かに程度の低いことなら私にもできるだろう」というような気持ちです。


 私が今こうして好き勝手して生きていられるのは、間違いなく甲野先生の姿を見てきたからです。甲野先生の姿から直接いただいたものと甲野先生を知ったことで広がった縁からいただいたものとが私の人生の大事なところを構成しています。
 そのため、私が最も尊敬し、そして最も恩がある人は誰かと問われれば、私は迷うことなく甲野善紀 先生だと答えます。


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 最後まで読んでくださりありがとうございました!