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私が尊敬している人

 私は「尊敬」というもののハードルが高いらしく、なかなか「尊敬している」と言える人がいません。そんな私にも「尊敬している」人が3人います。
 今日はそのうちのお一人である、高森草庵で修道生活をされているシスターのお話をします。
 高森草庵については、以前この記事の中で触れたことがあります。

 簡単に説明すると、カトリックの修道院のような場所で、農作業をして自給自足の生活をしつつ、修道生活を行う場所です。
 シスターはその高森草庵でもう何十年も修道生活をなさっています。

 シスターの人柄を伝えるのに大事な言葉として「仕える」という言葉があります。神様に仕える、神父様に仕える、人に仕える…。「仕える、という精神が無いと人はだめになる」ということもおっしゃいます。
 「仕える」と聞くと、前時代的な、封建社会的な、悪いイメージを持たれる方が多いと思います。ですが、シスターがおっしゃる「仕える」はそういうイメージの言葉とは少し内容が違うように思います。
 私がシスターの普段の振る舞いや行動を見て察するに、シスターの言う「仕える」とは「我(エゴ)を出さない」ということだと思っています。

 キリスト教では「謙虚さ」は美徳とされます。シスターが使う「仕える」という言葉の内実は「謙虚さ」だと思います。
 謙虚は慎み深く、控えめな様子を指します。それを具体的に表現するなら、物事を判断するときに好き嫌い、快不快と言った自分の我(エゴ)で判断せず、相手のためになるか、世のためになるか、神様の御心に沿うか、ということで判断することがシスターの言う「仕える」の中身だと思います。

 「仕えることが大事だ」というシスターはしかし、意見を言わずなんでも人の言うことに従う人ではありません。私にも間違ったことは指摘して正されますし、神父様にもシスターと意見が違う時は意見を述べられます。
 しかし、シスターの我(エゴ)によって出た意見ではありません。
 今何が大事なのか、今何を大事にすべきなのか、どう行動するのが人の歩むべき道なのか、どの道が神の御心に沿うものなのか。
 それらを踏まえた上での意見です。個人の好き嫌い・損得で判断されるものとは違います。

 それがシスターの言う「仕える」の内実だと思っています。

 また、シスターは「祈り」も大事にされています。
 「祈り」と聞くと、加持祈禱であるとか、神様にお願いごとをするというイメージがあると思いますが、高森草庵で言われる「祈り」は意味が異なります。
 そもそもキリスト教において祈りは、神様へのお願いごとだけではなく、神様への感謝、賛美、清聴、悔改と多様な行い全てを含みます。中世においては「祈りを口にすることをまたず、すべての行為が祈りとなっている状態」も祈りとされていました。高森草庵で言われる「祈り」もわざわざ祈りの言葉を捧げる行為だけを祈りと呼んでいるわけではありません。

 では高森草庵で「祈り」と呼ばれているものは何か。私はそれは「神様に心を向けて生活をしていること」であると考えています。

 少し説明が必要だと思いますので解説します。
 まず「神様」というのは、もちろんキリスト教で言われるところの神Godのことです。教義上は厳密な説明がいろいろあるのでしょうが、私はクリスチャンではないので、その内実については詳しく知りません。
 ただ、高森草庵で言われる「神様」とは「そのものをそのものたらしめる何者か」だと思っています。私が私である根拠、犬が犬である根拠、木が木である根拠、世界が世界である根拠……それが無いと世界が成り立たないもの。世界を成り立たせている大本の「なにものか」。
 「本質」「淵源」などとも呼ばれるでしょう。それに心を向けていることを「祈り」と呼んでいると考えています。

 シスターは包丁で食材を切っている時も、田植えで苗を田に植え付けている時も、私と話している時でさえも、常にその「神様」に心を向けていました。
 この現象世界の表面ではなく、その奥にある「神様」、本質に心を向けていました。
 人と向き合う場合で言えば、その人の表面、皮の上にある外面ではなく、その人の心、本性、そういったものを見つめて人と接していました。
 表面的なものでなく、その奥にある本質を捉えるその態度は私が憧れていたブッダの在り方そのものであり、シスターがそれを体現しているのだと気づいた時、シスターに凄みを感じました。

 そして、シスターを思い起こしたときに強く感じるのは「美しい人」という印象です。
 この「美しい」というのは、容色に恵まれていることではありません。私がお会いした当時、シスターは75歳でした。田舎の御年配の方あるあるのように、腰も90度くらい曲がっていました。見目麗しい、とはお世辞にも言えません。
 ですが、その表情、立ち居振る舞い、何か起きたときの何気ない対処の仕方、気の配り方など、その全てがとても美しいのです。
 シスターの美しさは、上記で説明した「仕える」の精神を持ちつつ、祈りの中で何十年も修道生活を送られてきたことから培われたものだと感じています。「歳を重ねることで増す美しさもある」ということを、私はシスターのお姿から教えていただきました。

 「仕える」の精神で生きることも、祈りの中で生きることも、どちらも行うこと自体が難しいですが、それを継続するのはより難しいです。それを何十年も、そして今も続けていらっしゃるのがシスターでした。
 その何十年もの積み重ねが人をこれほど美しくすること。
 それを教えてくださったシスターを私は尊敬しています。


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 最後まで読んでくださりありがとうございました!