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出家未遂した男のその後②

 出家未遂の男は実家を飛び出して高森草庵に向かいました。

 まず高森草庵について説明します。

 高森草庵は押田成人(おしだしげと) 神父が「人の計らいではなく,神様のお計らいに自らを預けて生きたい」という思いから無一物で長野県の高森という集落にて自給自足の修道生活を始め、その押田神父を慕って人々が集まって生活していって出来上がった自給自足の共同体です。押田神父が始められた共同体ではありますが、クリスチャン以外も受け入れており、私のような仏教徒も受け入れてもらえました。
 ちなみに押田神父はすでに10年以上前に亡くなっており,押田神父とともに高森草庵で修道生活をなさり、押田神父の最期を看取ったKシスターが継いでいました。
 私が実家から高森草庵に滞在を依頼した時に電話の対応をしてくださったのがそのシスターでした。

 私は新幹線と電車を乗り継いで高森草庵に向かいました。自分の未来に対するあらゆる不安で心がいっぱいでした。
 名古屋で新幹線から特急に乗り換え、長野県に向かって北上していた時のことです。私は窓の外をぼーっと眺めていました。いくつかのトンネルをくぐった後にパッと外の光景が目に入りました。外は松林の木々が並んでいました。
 私はその光景を見た瞬間「懐かしい」という思いを抱き、自分が「懐かしい」という感情を抱いたことに戸惑いました。
 私は海辺の街で生まれ育ち、生まれた県から出たことはほとんどないので、信州の松林に見覚えがあるはずはないのですが、それでも懐かしいという気持ちが生じました。その時の不思議な感覚を今も良く覚えています。

 高森草庵に辿り着いてシスターに挨拶をし、私の高森草庵での生活が始まりました。
 なお高森草庵での生活は「修道生活」と呼ばれます。故 押田神父が日本風土に合った修道生活を求めて始めたのが高森での生活だったからです。

 私が滞在した時は、私の他にTさんという女性とHさんという男性も滞在されていました。どちらも洗礼を受けているカトリックのクリスチャンです。
 また、W神父という東京の教会に所属している方も週の半分は草庵で生活されていました。その計4.5人で私の草庵生活は始まりました。

 
高森草庵の一日の生活は大体以下のとおりです。

 8時 朝のお祈り、黙想
 9時ごろ 朝食
 12時まで 農作業その他
 12時~ 昼食
 13時~ 農作業その他
 17時 夕のお祈り、黙想
 18時 夕食
 19時 自由・日によって聖書勉強
 自由に就寝

 高森草庵での食材はほとんどが草庵の畑と田んぼで作られた野菜と米です(その他は寄付金で買ったもの)。ですので、草庵での生活のほとんどは農作業に当てられます。

 草庵での生活は共同生活です。農作業も全員で分担して行いますし、食事などの生活に関わる家事なども全てみんなで行います。
 私は部活での合宿など短い期間ならともかく、長期間生活を共にする経験自体が初めてだったので、慣れないことばかりでした。

 一番印象的に覚えているのは、夕のお祈りの時に注意されたことです。
 夕のお祈りでは、旧約聖書の詩編を全員で声を合わせて読む時間があるのですが、何日か経った後、私の朗読の仕方を注意されたことがありました。曰く、私の声が大きすぎて周りと合っていない、とのことでした。確かに私は、声を出すときは大きな声を出すのが良いことだ、と思っていたので、周りの人の朗読の仕方も気にせず自分勝手に大きな声で読んでいました。
 注意された次の日、周りの人の朗読の仕方に耳を傾けると、私のように大声を出している方はおらず、囁くような、細く息を出すような、独特な発声をされていました。私は周りの人の朗読の仕方を良く観察して合わせるようにしました。
 今思い返すと、それが「息を合わせる」ということなのだと思います。

 上記の出来事が象徴していますが、一事が万事、家事にしろ農作業にしろ、人と息を合わせることにとにかく苦労しました。しかし、シスターを始め他の滞在者の方々のあたたかい手助けによってなんとか生活できていました(当時は全くその手助けに気付いていませんでした)。
 今までの人生で学び損ねていたものを学び直すような日々でした。
 
 また、前職が事務職であったこともあり、毎日農作業で身体を使って汗を流す一日は、身体は疲れますが気持ちよさもありました。
 身体を使い、自然と向き合い(草庵の周りは森だらけです)、日々気づきと学びを得ながら、草庵で共同生活をすることで心の休養という当初の目的も果たしつつありました。
 その一方で、自分がこれからどんなことを仕事にするのか、どういった人生を歩んでいくかについては、何も決められずにいました。

 さて、草庵でそのような生活をしていた私ですが、ダモ寺院で出家を諦めた後も瞑想修行は続けていました。
 正直、出家を諦めた時点で仏教自体から離れても良さそうなものですが、なぜか仏教自体を捨てるという選択肢は私にはありませんでした(なぜこの時仏教を捨てなかったのか、正直今でもよく分かりません)。出家者としてではなく、在家者として、もっと仏教の修行を深める必要があると感じていました。
 そして、もう一度タイのお寺で修行することを考えていました。

 その時行こうと思っていたお寺は前回のダモ寺院ではなく、スカトー寺というお寺です。
 そのお寺は私の実践していた瞑想を指導してくださった日本人僧侶のプラユキ・ナラテボー師がいるところでした。
 プラユキ師は当時、スカトー寺の副住職を務められており、日本からの修行者や悩み相談に来る人たちを受け入れておられました。

 プラユキ師は在家者であっても受け入れ、多くの修行者の瞑想指導もされており、その評判は聞き及んでいたので是非一度訪ねたいと思っていたのでした。
 
 上座部仏教では雨安居と言って、一定期間一箇所に留まって修行に専念する期間があります。その雨安居の時期であれば受け入れられるとのことで、その年はそれが7月下旬から8月にかけての期間だったので、7月末から2週間、スカトー寺で修行させてもらうことにしました。
 高森草庵での生活を2か月半過ごした頃でした。シスターに2週間ほど草庵を離れる旨を伝え、迷える子羊は信州から再びタイに向かったのでした。

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