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「分かってもらえた」感に感じる救われた感

 人の話を聞いて「あー分かる!」と思う感覚があります。その人がその時感じた思いや感情などを我が事のように感じる感覚です。
 でも、本当のところは相手の気持ちや感情を「本当に」分かっているのか、誰にも分かりません。私にも分からないし、相手にも分かりません。そうであっても、私は「あー分かる!」と感じるし、相手はそれを聞いて「分かってもらえた!」と感じます。それがとても不思議だな、と思います。

 先日、ある友人に私の個人的な悩み事の相談をしました。私としては非常に特殊で、深刻なものだったつもりだったのですが、意外なことに相手はそこまで特殊なものと受け止めず、「まあそういうこともありますよね」くらいのテンションでした。
 私は拍子抜けしたような気もしたし、ほっとしたような気もしました。とても分かってもらえる内容ではないと思っていたのに、割と理解を示してもらえたからです。その時、上記の「分かってもらえた」感を感じ、安心感を感じました。
(蛇足ですがこの時の相談内容がこちらの記事で、その友人に話を聞いてもらえたから記事として公開する気持ちになれました)

 私の話の流れでその友人から、「分かった」「分かってもらえた」つながりの面白い話を聞きました。
 ある女性の漫画家がいて、その漫画家はイケメンが足を洗っているところに性的興奮を覚える性的嗜好があったそうです。自分のその性的嗜好を描いた漫画(同人誌だったかも)を作るのですが、どれだけ描いても売れません。自分の性的嗜好の同志はいないのか……と気落ちをしていると、一人だけ熱烈なファンができたそうです。そのファンはどんなに遠いところで即売会を行っていても買いに来てくれるのだそうです。その1人のファンのおかげでその漫画家は「分かってもらえた!」と思い、救われた気持ちになったというのです。

 なんだか、その時の自分の状況とも重なって、その漫画家さんのお話(実話の話だったか、創作の話だったか忘れました)はとても共感するところがありました。
 自分にとって非常に特殊で、誰にも理解されないだろうと思っている事柄について理解を示されると、とても安心感を感じ、大げさではなく「救われた」気持ちになることがあります。

 人が苦しみを感じる状況はいくつもありますが、その中でも特に強く苦しみを感じるときというのは「私のこの苦しみを誰も分かってくれない」と思っているときではないでしょうか。「自分の苦しみを誰も分かってくれない」「こんなことで苦しんでいるのは自分だけだ」というような孤独感は、実際の苦しみをそれ以上のものにしてしまうように思います。
 その友人ともこの話をしたときに話題に上がったのですが、だからこそ、苦しみの渦中にいる人はカルトなどにハマってしまうのだろうと思います。
 自分の苦しみに「それは前世からの業ですよ」や「悪霊の仕業ですよ」などという解釈を与えられ、その解釈を受け入れれば理解を示してもらえる相手、集団がいたとき、「分かってもらいたい」という気持ちからその解釈を受け入れ、その集団に帰属するということはあり得ると思います。その集団にいれば、「分かってもらえる」という安心感や救いを感じられるなら、どんなに周りから反対されてもその集団に居続けようとするでしょう。私もその友人に話をして理解を示された時にちょうど似たような思いを感じたので、カルトにハマってしまう人の気持ちが少し分かるような気がしました。


 苦しみの渦中で救いを求める人はこの「分かってもらえた」感を得たいと思って足掻いていることが多いのかもしれません。そして、そういう意味での「救い」を、カルトに限らずスピリチュアル系の思想や宗教に求める人もいることでしょう。
 実際、私自身を振り返ってみると、自分が苦しみの渦中にいたときに「助けてほしい!」と思っていた時は、「分かってもらえた」感を得ることによる「救われた」感を求めていたように思います。私の場合は、幸か不幸か、望んだ形の「分かってもらえた」感を得る機会は無かったのですが、そうであったために上座部仏教に出会い、今の私があります。もしその時にカルトなどに接触していたらそれに入信していただろうし、「分かってもらえた」と思える人に出会えていたらその人に依存していたと思います。
 
 そう考えると、私とカルトにハマる人との違いはちょっとした出会いの差だと言えますし、未だに私の問題は完全に解決されたわけではないので、強烈な「分かってもらえた」感を得る体験をすれば、あっさりそちらに転ぶだろうなという気もしています。そして転んだ先で「これこそが私の求めたものだ!」という思いがあるなら、それは主観的には「幸せ」と言えるものでしょう。もしそうなら、それ自体が悪いこととは言い切れない私がいます。むしろ、それこそが「正解」だとさえ言えるかもしれません。
 いずれにせよ、転ぼうと思って転べるわけでもないし、転ぶまいと踏ん張ったところで転ぶときには転ぶわけだし、未来のことは未来の自分に任せて、今信じている実践を続けていこうと思います。


 本日は以上です。最後まで読んでくださりありがとうございました!
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