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文献紹介―小泉悠「ウクライナ戦争をめぐる「が」について」(『世界』2023年10月号、pp. 43-58.):日本におけるロシア・ウクライナ戦争に関する修辞(レトリック)の一特徴の分析と考察

ロシアの軍事戦略や安全保障を専門とし、第二次ロシア・ウクライナ戦争勃発以来学術的世界でのみならずテレビ等のメディアでも積極的に発言を続けている小泉悠氏(以降多少なりとも学術的な紹介と論評の通例として「氏」は省く)による異色の、しかし個人的には待望していたタイプの、論考である。

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『世界』表紙


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掲載誌は岩波書店から出ている伝統ある雑誌『世界』であり、著者本人もそれについてはかなり意識しているようではある。

いきなり個人的な追懐で申し訳ないが、私(紹介者の小方)は、(最初の)大学時代、「進歩的」なタイプの知識や教養を、身に着けないまでも一応知っておいた方が良いと(多分周りの雰囲気に押されて)考え、『世界』を毎月のように購入し、併せて大体は一時代前の岩波新書を古本屋で買い集めては(隙間時間の)電車の中とか大学の「ラウンジ」とかベンチとかで、(多分端から見れば)熱心そうに読んでいた。(内心は、「こんな東大エリート共の戯言に乗せられて殺されるのは嫌だな」と本気で考えてはいた。)
その頃の『世界』の主要な論調は、日本における非武装主義や非核主義を熱烈に支持・鼓吹するものであり、また旧植民地としての「第三世界」についてもソ連の支援とのセットにおいて熱心に論じられていた。表面的な印象に過ぎないが、『世界』2023年10月号においても、「ウクライナ危機とアフリカ」(勝俣誠。「第三世界」ではなく「グローバルサウス」という言葉になっている)、「非暴力、サボタージュ、オルタナティブな未来」(箱田徹。それ自体場面によって有効な意義を持つが、ロシア・ウクライナ戦争の文脈に単純適用するとコミックならいいが残虐小説にもなるという実例がある)といった論文が掲載されており、『世界』の個性は未だ健在であるように見える。
もともと「リベラル」ではなく、高校時代「日本の右翼運動」を、ガチ左翼の「日本国家消滅待望(工作)論者」のような奴がプロパガンダ的にやっていた社会科授業における卒業研究のタイトルとしていたような私自身は、大学の半ば頃から『世界』(やある種の岩波新書)の読書はやめ、その後第二次ロシア・ウクライナ戦争勃発に合わせてその他の雑誌と共に定期購読するようになるまで、約35年間この雑誌とは全く無縁であった。)

本稿では、小泉の紹介をすることを主な目的とするが、途中論評が入ることはお許し願いたい。著者の意図から外れている部分もあるかも知れないが、その点も御容赦願いたい。

本論文は、以下の七つの節に分かれている。数字はもとの論文には記されていないが、本稿の記述の便宜のために私が付したものである。


①   はじめに:ウクライナの「複雑さ」をめぐる議論
②   国家のフィクション性と暴力
③   安全保障屋として言わせていただくなら……
④   ロシアのナラティブを検証する
⑤   戦争が「他をもってする政治の延長」でない時代に生きるものとして
⑥   再び「複雑さ」について
⑦   おわりに:どの大国も残虐であるとするならば

さて、①の節で小泉はこの論文の主題を提示する。それは、この戦争が始まって以来多くの論者によって使用されて来ている「ロシアの侵略は許されるものではないが」という(著者の言葉によれば)「枕詞」を巡る分析と考察である。小泉の分析に基づけば、この表現は、

前提:ロシアの行為は侵略であり、許されるものではない
本論:「戦争の背後にある「複雑さ」を見落としてはならない」というマクロな思想に基づく諸意見

という、二段構えの修辞的構成を取っている。

なお、本論文にはその実例は出ていない。
この構文にぴったり当てはまる実例は今評者の手許にないが、評者が収集した橋下徹によるロシア・ウクライナ戦争関連のツイッター(note記事:資料[資料1]―橋下徹氏のロシア・ウクライナ関係ツイート集成(2022.2.24-7.6)2023年9月5日 11:46)には、類似した構文が現れるので、参考までにその幾つかの例を以下に掲げる―

「ロシアが一番悪い。ウクライナの戦闘員には敬意。だけど戦争指導のあり方については国民議論が必要だね。」(午前11:56 2022年4月6日)

「ロシアが悪なのは当然です。即時撤退は当然です。ただし戦わない一般市民の退避を念頭におくかどうかは戦争指導として超重要です。この日本においてすら一般市民は逃げるべきだと侵攻前に主張した僕に対し、専門家たちもピーチクパーチク言ってきましたから。」
引用:上念 司@smith796000
2022年4月7日
返信先: @smith796000さん
「そのように準備・整理できれば理想です。しかし、ロシア軍はそんな準備などお構いなしに攻めてきて、無抵抗のウクライナ人を殺しまくっています。準備が整わないのに攻めてくるロシア軍こそ問題です。今すぐ撤退すべきです。」
https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1512040934308937729
午前10:16 · 2022年4月8日

「ロシアの暴挙は許されない。しかしこの停戦協議中のウクライナの安全とロシアの安全くらいは、戦争になる前にNATOとロシアが政治的に折り合いをつけておくべき話だ。今回は政治の失敗が非戦闘員の悲惨な被害を生んだ。NATOは責任を感じて、今からロシアと政治をしろ!ウクライナだけにやらせるな!」(午前10:25 2022年3月16日)

そして小泉によれば、上記二段目の「複雑さ」は、大きく以下の三種の類型に分かれる。

類型1 ウクライナという国家に関する「複雑さ」
類型2 冷戦後の歴史に関する「複雑さ」
類型3 二〇一四年以降のウクライナを取り巻く状況に関する「複雑さ」

著者は、これらの「複雑さ」に関する論評自体を、一般的な意味では否定していない。問題とするのは、「複雑さ」の議論が否定されるべきものではないとしても、その前段の枕詞「ロシアの侵略は許されるものではないが」、特にその最後の「が」が正当化されるべきなのかどうか、ということである。小泉自身の文を引用すれば、「この「が」というたった一文字はなかなかに厄介なものであって、よほど慎重に用いるのでない限り、我々が生きる世界の秩序を容易に掘り崩しかねない危険性を孕んでいる。」
すなわち、著者小泉のような(自称)「安全保障屋」が、この種の修辞(レトリック)分析の論文を書くことの意味は、この種の修辞(レトリック)が「我々が生きる世界の秩序を容易に掘り崩しかねない危険性を孕んでいる」ためである。つまりこの場合、言葉(記号)は極めて危険な形で現実に「着地(接地)」しているのである。
「記号の現実着地(接地)問題」というのは人工知能で取り沙汰されている問題であり、それはコンピュータが操作する記号情報を、どうすれば現実と接合することが出来るのか、という基本的に「出来ないこと(難しいこと)」を前提とした議論であるが、私の物語論(ナラトロジー)の観点から見れば、寧ろ言葉という記号の操作は現実を反映するだけではなく、現実を規定してしまうのである。「偽情報」という虚しい記号は、現実に影響を与え、現実の構成を強烈に規定し得る。
私自身の話で恐縮ではあるが、私は国際関係論に関してもロシアに関してもウクライナに関しても全くに素人でありながら、最近『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』(新曜社)という本を出版した。「素人」という言葉を頻繁に使うと過剰に本気にする人がいるので断っておくと、私には人工知能とか物語論(ナラトロジー)とかいった「専門領域」はある。これ自体微妙で、これまでの人生で通じたためしはないが(相手の顔が常に微妙に歪む。ただし最近「生成AIのようなものです」と言うと妙に通じてしまってびっくりすることがあるが。この国の人間は相変わらず黒船に乗ってやって来たものだけを尊重するのだろう。みんながとうから知っていたジャニーズの件も黒船に乗ってやって来てしまったら、日本を破壊して来た如何にも顔の企業家が偉そうにジャニーズ排斥論までぶち上げた。最初からテメエ自身が言えないの? 構造が大事なのだが、構造は何も変わっていない、という話です。この小泉論文が問題としているのも多分、修辞(レトリック)の構造である―余談でした)。この「専門領域」(本音ではそんなものどうでも良いが)の観点から、私は、ロシア・ウクライナ戦争が、プーチンの物語やロシアの繰り出す物語(=「偽情報」と規定される場合が多い)とウクライナの物語(この中にも偽情報は含まれるが、プーチンやロシアの偽情報よりは質が良いと考えられている)との対立であるばかりでなく、それを巡るヨーロッパやアメリカなどの物語、特にそれを巡る日本国内の物語、それらの物語の総合として解釈可能さらにモデル化可能である、というストーリーに沿って、私はこの本を書いた。第四章で、この戦争を巡る日本の言論人の物語戦の様相を修辞(レトリック)分析を通じ可能な限り包括的に明らかにしようと考え、橋下徹のくだらない(文章も劣った)ツイッター記事を多量に分析・精読・論評し、その他何人かの人の(多くは愚劣な)文章や発言を分析したが、当初の目標に照らせば序論的な議論で留まってしまった。私自身は、日本人にとっても何らか本質的な意味があると恐らく多くの国民が感じ取っているこの戦争については、特に日本人がこの戦争をどのように論じているのか(それには内容だけではなく、形式や構造も含まれる)の「修辞的分析」が重要な意味を持つと感じ、それが一冊の本を書いたもともとの駆動力でもあった。小泉が『世界』という文脈の中に放ったということだけでもかなり笑えるのだが、私にとっては、「軍事戦略の専門家が言説の修辞分析をせざるを得ない戦争」(私にとっては当たり前なのだが、そういうことを実際にしてみせる人はまだあまりいない。なお、「プロパガンダ」研究になってしまうと、試みの微妙な本質が失われるような気がする)としてこの戦争が認められた、という意味で、私の素人的作業も完全に孤独なものではないと、多少勇気づけられたような気もする(が本音としては孤独だろうが何だろうが別段どうでも構わないが)。

さて、小泉論文における②と③と④では、それぞれ類型1から3を巡る議論が行われる。
まず②の「国家のフィクション性と暴力」である。随分刺激的なサブタイトルであり、私などはすぐに吉本隆明の共同幻想論や、その前の埴谷雄高などの議論を思い出してしまう。しかし小泉は直接その種の議論を展開するわけではなく、その論旨を辿れば、まずプーチンも2021年7月の所謂「一体性論文」で主張したような、「ウクライナ」という存在における客観的に認定し得る類の複雑性を示す。様々な書いてあるが、本文を参照されたい。小泉によれば、しかしながら、その程度の複雑さは侵略や戦争の理由とはならない。その手の複雑さならロシア自身だって持っている。ここで小泉の言いたいことを少し解きほぐして示せば次のようなことになるかもしれない(当たってるかどうかは知りません。私の意見です。)

以下のような典型的議論構造がある(これは①で示されたもの。一部私の言葉で脚色してある)―

前提:ロシアの行為は侵略であり、許されるものではない
本論:「戦争の背後にある「複雑さ」を見落としてはならない」というマクロな思想に基づく諸意見

このような構造を持つ多くの議論は、この後に「効果」乃至「示唆」として、次のような言明を隠し持っている。

効果乃至示唆:従って(だから)、ロシアによるウクライナ侵攻(侵略)には、同情(共感)すべき余地がある

なお、ここで「示唆」とは、話者(論者)が意図的にある主張を読者に連想させようとするタイプのレトリックであり、「効果」とは意図的であるかは問わず、ある主張がその論述の流れから読者に自然に連想させられるようなレトリックである。後者はオースティンによる言語行為論と関連する。

上では、「ロシアによるウクライナ侵攻(侵略)には、同情(共感)すべき余地がある」と書いたが、これはかなり遠慮勝ちな表現であり(なお、ここでは「侵攻」と「侵略」は同じような意味・ニュアンス)、

・ロシアによるウクライナ侵攻(侵略)は正しい
・ロシアによるウクライナ侵攻(侵略)は無理もない
・ロシアによるウクライナ侵攻(侵略)は仕方ない

等いろいろな表現が入り得る(強い表現から弱い表現まで)。「ロシアの侵略は許されるものではないが」という「枕詞」に直接つながるのは、「戦争の背後にある「複雑さ」を見落としてはならない」というマクロな思想に基づく諸意見なのであるが、さらにその向こうに多くの場合暗示・示唆されるのは、「ロシアによるウクライナ侵攻は仕方ないよね」という許容的言説である。

なお、このような議論の構造・パターンは、何も今回のロシア・ウクライナ戦争を巡る議論に特有なものではなく、より普遍的なものである。あくまでも心理学的な推測としては、以下のように表現出来る。

「話者(論者)がある命題を主張したいのであるが、その命題自体は、直接的に(常識的に)考えた場合褒められたものではない(と話者自身が自覚している)場合、まずその「命題は悪い」という言明を行った後、しかしその命題を巡る状況は複雑で混沌としている、という言明を繰り出し、最後は曖昧に言葉を濁す(ことによってその命題が「ある意味で正しい」ことを示唆する乃至文章全体からそのような効果が醸し出されるようにする)。」

決して珍しいものではない。例えば、

「あいつセクハラするなんてほんと悪い奴だよね。でも、された(と訴えてた)方の人ってかなりいろいろ言われてたみたいだね。ちょっと複雑だよね……」(「……」の部分が効果乃至示唆。)

私は島田雅彦についての二つの記事をnoteに公表したが、そこで主題に取り上げた島田の議論も、以下のように同型である。

作家・法政大学教授の島田雅彦氏の暗殺(テロ)肯定論に関わる文章が難しくて理解できなかったので書き換えてみました(2023年7月19日 15:59)
粛清と暗殺の魅力―成田悠輔や島田雅彦のいる風景(2023年7月21日 15:19)

「元総理大臣を暗殺するなんて悪いことだよね。でも、暗殺した方にもいろいろ複雑な事情があったみたいだね。暗殺が成功して良かったね。」

島田の場合は素直なのか、最後に示唆や効果として浮かび上がることを狙うのではなく、「暗殺が成功して良かったね」と直接言明してしまっている。しかし途中の文章や論旨の展開が複雑(?)過ぎて一読論旨が取れない文章となっている。また、「でも、暗殺した方にもいろいろ複雑な事情があったみたいだね。暗殺が成功して良かったね。」という二つの文の間には、この語り手自身の思想や哲学が挟まっており、この場合なら、暗殺された元総理大臣に主観的に反対する(客観的に反対していたのかどうかは、島田がこの元総理大臣の政権下において紫綬褒章という御褒美を貰っていたので、実際のところ不明である)島田自身の立場、「リベラル」を自称する島田自身の立場が挟まっている。

簡単にまとめてしまえば、
 
A)   出来事Aは悪い(が)
B)   その出来事に関わる事柄は複雑(なので)
C)   出来事Aは無理もない(仕方ない)

枕詞の短歌や、さらに俳句が、そうであるように、直接言わないことによって強調する修辞技法は日本人にとっては特にお馴染みのものである。上記Cは直接表出されないことが多い。つまり、複雑性を記述することによって、Cを暗示・示唆するという技法である。

少し長くなってしまったが、小泉の議論に戻る。国家が近代になって生まれた虚構(フィクション)という論は、議論の余地があるのでここでは立ち入らないが、一つだけ、「虚構(フィクション)」と言うと、簡単に雲散霧消してしまうような幻、というイメージを与えるが、例えば吉本隆明の共同幻想論は、フィクション(幻想)であるからこそ逆説的に強固、という論を展開している。要するにみんなが国家を国家と思わなくなれば簡単に消滅してしまうのであるが、そもそもみんなが国家を国家と思わなくなる情況が現実化するのはそんなに簡単ではない。Note記事(2023年9月1日 16:08)に、私は、「上念司氏の新著『経済で読み解く地政学』は「ロシア偽情報戦」の入門書ともなっています(特に3、4章)。有名なメッスネル理論の他反射統制理論のことも解説されています。「国家、革命、軍隊といったものは、すべて心理的現象である」というメッスネル理論は吉本隆明の共同幻想論を思い出させます。」と書いたが、メッスネルの理論もこれと似ている(但し私自身はまだ読んでいないので具体的には知らない)。
ここでの小泉の論旨は私にはちょっと分からない部分があるが、恐らく、小泉が言う国家フィクション論によって、ウクライナというフィクションとしての国家が解体されるべきであるする理論(?)があるとしても、現在、現実において行われているような激烈な暴力を使った形で行われることには賛同できない、という風に読める。
恐らく、ウクライナ解体を目指すプーチンらとそのシンパによる戦争肯定論の否定の論理の中に「国家フィクション論」を持ち出したのだろうが、このような議論が実際に存在するのか、私自身は知らないので、この部分についてはコメント出来ない。しかし上述のように、私が大学時代読んだ吉本的共同幻想論が、暴力によって国家を強制的に退場させることを肯定する理論ではないことは確かである(但し、短絡的に捉えて、そのように解釈する輩がいることもまた否定はできない)。

次の③であるが、類型2の主要な内容は、所謂NATOの東方拡大とロシアのそれに対する懸念、である。これについては日本の多くの論者が今回の戦争の原因であるとして喧伝して来たものである。戦争初期にメディアを動員してNATO東方拡大原因論のプロパガンダを大々的に行ったのが橋下徹であり、それ程大々的ではないが藤井聡も戦争初期に「(無知な)日本一般大衆に俺様が教えてやるのだ」という感じのデカい態度でNATO東方拡大原因論をいわばまくし立てていた。
なお、小泉は次の④の節において、NATO東方拡大原因論がロシアのナラティブすなわち偽情報の一種として見た方が良いとの論を展開している。
これについての小泉の意見は明瞭である。「安全保障屋」としては、所謂「NATO東方拡大」は重要な問題であるが、これがロシアの侵攻を許容するものとなることはあり得ない。著者が「安全保障屋」であるということの一つの重要な論拠は、恐らく「現実的」であるということにあるのだろう。仮に「NATO東方拡大」が軍事的論理において重要な意味と意義を持つとしても、ロシアは段階的な対応を行うべきであったが、それを怠ってウクライナ侵攻に及んだ。これに対して、アメリカのイラク戦争や、第二次ミンスク合意に関する問題点を持ち出しても、それがロシアによる今回の戦争を正当化する論拠にはなり得ない。つまり、いろいろ複雑な事情があり、視点や立場によって、重要な問題もあり得るが、その種の複雑さを持ち出すことによって、今回のロシアによる不法な侵略が許容されるストーリーが形成されることはあり得ない、あってはならない、というのが小泉の基本的な主張である。
④の節「ロシアのナラティブを検証する」では、類型3(二〇一四年以降のウクライナを取り巻く状況に関する「複雑さ」)について議論される。類型3は直接引用しておこう―

「現在の事態は二〇一四年のウクライナにおける政変(マイダン革命)の延長上にある。したがって、この戦争に関してはマイダン革命とこれに続いて二〇一四年―二〇一五年に発生した一連の軍事的事態の性質に関する評価を踏まえなければならないとするのがこの立場である。」

所謂「マイダン革命」からロシアによる一方的で不法なクリミア併合、ドンバス侵攻という事態の流れを巡っては、私の記憶には、日本のマスコミや言論人の激しい(ロシア寄り)プロパガンダがこびり付いている。その後「同じ未来を見ている」安倍晋三とプーチンの会見が激しく行われていた時期において、日本のマスコミは、プーチン可愛い論・プーチン親日論・プーチン犬が好き論、など、青い素敵な目をしたプーチンを思いっきり素敵なイメージで描き上げようとする偽情報戦とプロパガンダに血道を上げていた。
小泉はここで、マイダン革命を巡るロシアのナラティブを跡付け、それが現実に根拠を持たない偽情報であることを、ウクライナ側による「残虐行為」の実例をも挙げながら、論証している。本節の後半は、「ロシアのナラティブすなわち偽情報としてのNATO東方拡大原因論」の記述に費やされる。

以上の三つの節で、「複雑さ」を巡る三種の仮説的類型のそれぞれについて議論されたが、それらを踏まえ、以下の⑤から⑦までの三つの節で、総括的議論が行われる。

まず⑤「戦争が「他をもってする政治の延長」でない時代に生きるものとして」では、戦争を「他をもってする政治の延長」と規定したクラウゼヴィッツの戦争論の時代から、時代は大きく動き、今や如何なる「複雑さ」が存在しようとも事態を武力によって解決することは否定される時代に至ったことを、国連憲章における幾つかの条文を引いて、跡付けている。

⑥の「再び「複雑さ」について」においては、重要な提案が行われている。すなわち、議論の流れにおいて、「ロシアの侵略は許されるものではないが」ではなく、まずは「ロシアの侵略は許されるものではない。」と、ここで区切りにすることの提案である。そして、この戦争を巡る諸状況における「複雑さ」に関する議論は、この「ロシアの侵略は許されるものではない。」という前提が十分に確認された後に、「しかし」と入って行くべきである、とする提案である。
評者の考えでは、この提案によって示唆されているのは、前に私が整理した次の構造を壊すことまたは変形するである。

前提:ロシアの行為は侵略であり、許されるものではない
本論:「戦争の背後にある「複雑さ」を見落としてはならない」というマクロな思想に基づく諸意見
効果乃至示唆:従って(だから)、ロシアによるウクライナ侵攻(侵略)には、同情(共感)すべき余地がある。

次のような変形が考えられる―

本論:ロシアの行為は侵略であり、許されるものではない
付加議論(参考議論):「戦争の背後にある「複雑さ」を見落としてはならない」というマクロな思想に基づく諸意見
効果乃至示唆:(にも拘らず)ロシアの行為は侵略であり、許されるものではない

全体が木だとして、最初の構造が、枝葉末節が繁茂して、幹を覆い尽くすタイプの木の構造であるのに対して、後者は、幹があくまで幹として露出しながら、多様な枝葉末節が見られるという木の構造である。
しばしば、「ロシアが悪でウクライナが善」であるとする単純な論法を揶揄する議論が見られるが(例えば藤井聡。小泉が編者として加わっている『偽情報戦争』(NTT出版、2023)という本でも、他の編者が藤井の台詞を援用している)、小泉はここで、この戦争の文脈において、「悪」はあくまでロシアであると規定する。
ポストモダンの風潮が極まり、すべての出来事は相対化され(相対的に解釈され)、人々は大きな物語を否定し、二項対立を否定して来た末に、特に人文・社会系の研究者が「ロシアが悪」と明言できなくなっている現状、などとまだ言える状況が続いていたのかと私などはいい加減驚いているのであるが(研究者がそれに代わる物語を構築することが出来なかった証明であり、プーチンにすら最悪の形で先を越されてしまったという訳だ。猛烈に反省すべき)、小泉はここで全く当たり前のことを言っていると私などは思う。「ロシアの振る舞いは絶対的に悪い(小泉)」――賛成。
著者は、より議論を一般化し、今回ロシアが「悪」として行っているような「残虐行為」は、「大国」に特有な行為であり、今回はロシアがその大国的振る舞いを演じている、と見なしている。その上で、ロシアの侵略行為が一般化されたものとしての大国の侵略行為とみなし得る場合、我々日本人はそれに対してどう向き合うか、という問題提起をしている。次の二つのオプションが提示される―

オプション1:あらゆる大国と距離を置き、自らも大国性を放棄すること。
オプション2:重武装中立国となるという方向。実質、「日本核武装論」である。

⑦の「おわりに:どの大国も残虐であるとするならば」では、上記⑥の議論を踏まえた上で、「概ね現状維持を支持する」という著者自身の結論が示される。すなわち、「日米同盟の堅持と日本の防衛力増強」である。潔い。著者は、これが『世界』の読者から受けが悪いだろうと述べているが、寧ろこの種の現実主義路線の論文が『世界』誌に掲載された事実が重要であろう。
⑥の「オプション1」として小泉が述べるように、日本の「戦後リベラル思想」が主張して来た、憲法九条二項厳守の、一切のあるいは大部分の軍備を持たない国になるという理想が、日本を取り巻く現状において単なる「空想」であることは、どんなバカだろうが認識せざるを得ない事実であろう。無論、それでも仮に侵略されれば「潔く死ぬ」などと言っている人も未だにいるが(例えば評論家神山睦夫。札幌の紀伊国屋書店で立ち読みして覚えているが、買わなかった)、そういうのは放っておいても死ぬジイさんだけで(成田ではないがさらに潔く切腹でもするがいい)、若い人々にそんな無責任な空想を押し付ける人は最早ほぼいない(少数はいる)。上記神山本人も、確か、これは単に自分個人の持論・空想であって、人に押し付ける気はない、ということを書いていたような気がする。それは自由か。
⑦において、核シェアリングの問題に批判的な観点から言及されるが、この辺は狭義安全保障の問題に関しては、実際に論文を当たっていただきたい。

以上ざっと(細部は抜かして)紹介して来た本論文は、現実的な選択の問題として、「(日本人として)比較的小さな悪を選びたい」というスタンスから、ロシア・ウクライナ戦争を巡る日本の典型的言説構造の修辞的モデルを提出し、その修辞内容の中核を成すものとしての「戦争を巡る複雑な事情」を大きく三つのタイプの分類し、それぞれについて批判的に論評した上で、この修辞を超える新しい修辞の可能性を示し、さらに日本と日本人の(著者が考える)あるべきスタンスを提案するものである。
あるいは大袈裟に考え過ぎなのかも知れないが、評者は、『世界』誌がこの種の「現実容認」論文を掲載したことには、大きな意義があると考えている。例えば、ティモシー・スナイダーが、ヒトラーのホロコーストを描いた『ブラックアース上下』(翻訳:慶應大学出版会)で述べているように、ナチスによる犠牲者は、「国家」の庇護の無い人々に偏っていた。第二次世界大戦を経た日本人にとって、国家は、(吉本隆明が言ったのよりも軽い意味で)幻想として・フィクションとして捉え否定したいものであるとしても、現在の世界・地球においてそれは我々を庇護する最も強力な環境である。少なくとも短期的な意味で、そのことを(現実的に)否定出来る者はいない。日本人なら、皮肉なのか遠大な戦略なのか、日本国家を徹底的に批判・否定する研究を行っている研究者や作家などが、その「言論の自由」を日本国家から強固に保証されていることは、誰もが知っている(だから学者はバカにされるのだ)。三島由紀夫はそのことを徹底的に理解していた。どんなにバカな『世界』編集部であっても、国家の短期戦略・中期戦略・長期戦略の区別位しないとロクな議論にはならないこと程度は、気付いているだろう。そういうことを考えること自体を忌避する者達もいるに違いないが、それは単なる「原理主義者」であって、社会にとって最も害悪の大きい輩だ。
私は、ロシア・ウクライナ戦争を巡ってメディアに浮上し、一部のジイさん達から「御用知識人」などとも呼ばれている人々が、『文藝春秋』にも『正論』にも、そして今度は『世界』にも書いていることは、一つ喜ばしいことだと思っている。具体的に考えて行くためには、また例えば現在の学生の将来・未来にも責任を持つためには、極めて現実的・政策的な観点から、あくまで今現在の所与を踏まえた上で、物事に対処して行かなければならない。「安全保障屋」からこういう議論が出た以上、ポストモダンから一歩も進んでいないかに見える人文系の学者や、ロシア陰謀論に完全に巻き込まれた社会系の学者が、どのようにこれに答えるか見ものである。ただし本音を言えば、私はそういったことには期待していない。寧ろ、新しい学者達や研究者達が、旧来型の忖度なしに、極めて現実的な議論を押し進め、その中から自然に理想主義的な議論も押し出されて来るような、そのような未来を期待している。
 

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