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『東大理三の悪魔』 を受けて

 前々からウォッチしていた YouTuber が本を出版したので,興味深く拝見した.ぴーす先生の『東大理三の悪魔』である:

 ぴーす先生を初めて知ったきっかけは,友人が先生のある動画を共有してくれたことだった:

 当時の私の関心は,「サイコパスと集団の秩序」だったと記憶している.この動画ではこの人類の根幹に関わる事柄について,かなり踏み込んで述べられていると感じたのを覚えている.それ以降,先生に興味を持ち,過去の動画を見るようになった.そこには,意識や死後の世界についてや,相対性理論について,なぜ人間は数学を理解できるのかについてなど,多くの興味深い動画が上げられていた.
 そんなわけで,ぴーす先生の新着動画をいつも楽しみに待っていたわけであるが,ここ最近は投稿が滞っていた.そんな中,突然「今までの動画で解説した内容を盛り込んだ小説を書いた」と告知があり,即座に購入して拝読したというわけである.
 この小説の内容はとても興味深く,私がかねてより考えてきたことに通じる部分も多かったので,今回考察という形で本稿を執筆することにした.先日,ぴーす先生がこの小説を X で宣伝しているのを見かけ,広く知らしめて議論を呼びたいという意図と裏腹にあまり建設的な反応が得られていないのを目の当たりにしたので,私なりに有益な感想を表明しようと試みた結果が本稿である.
 本稿では,『東大理三の悪魔』で論じられている事柄のうち,理解の本質について,狂気と「天才」について,またサイコパスについて,私なりの考察を加えた.以上に挙げたいずれも,私が常々考えてきたことに通ずるテーマである.この小説では他にもたくさんのテーマが論じられているが,私の現時点の知識では深く切り込むことができないため,本稿の対象外とした.また,考察という性質上,小説のネタバレが多分に含まれることに留意いただきたい.
 想定読者としては,『東大理三の悪魔』を読了した者で,かつ数学的・物理的素養があるのが望ましい.なぜなら,この小説にとって数学および物理は主要なテーマの一つであり,それを簡潔に考察する上でそれらの道具は欠かせない.しかしながら,数式に馴染みのない読者は該当部分だけ読み飛ばしても構わない.自然言語によってもできるだけ明瞭な考察を心がけたつもりである.
 また,本稿の一部は有料となっている.これは内容の質に対する自負に加えて,本稿の一部で扱う事柄があまりに人類の真実を抉り出すために,閉じた空間を作り出さねばならないという判断からの措置である.私なりに料金に見合った質の内容を提供しようと努めているが,内容に満足いただけない場合は返金も検討する.ぜひ忌憚ないご意見を賜りたい.
 最後に,X において私の感想に反応をいただけたばかりか,快く本稿を執筆することを勧めてくださったぴーす先生に感謝の意を表する.


理解の本質

 『東大理三の悪魔』において,主人公の回想で登場する「論理は一次元的,理解は二次元的,実感は三次元的である」という標語は重要な役割を果たしている.この本質を言語化しつかんだからこそ,主人公は小学生レベルの算数も苦手で荒れた中学校で虐げられていたところから,数学をはじめとする学力を伸ばし,高校では最も優秀な成績を収め級長になり,東京大学に合格するまでに躍進する.
 私はこの標語は本質的であるように思う.それを同じく数学の言葉を使って紐解いてみよう.
 さて,「論理は一次元的」というところから見てみよう.論理とは,議論を司る理であって,何かが「成り立っている」ということを示すための方法である.議論とは通常言語を用いて行うものであり,言語とは有限の候補の記号を (改行等の装飾を排除すれば) 一行に並べていった記号列であるから,一次元的である.例えば,日本語は究極的には ひらがな + カタカナ + 漢字 という (莫大な数ではあるが) 有限な候補のある記号を複数横に並べていったものである.アルファベットならば,大文字,小文字の 26 × 2 文字 + 若干の記号 という有限の候補の記号の列である.
 ここからさらに考察を深めるために,(形式) 言語学的な見方を導入する.
 上述のように言語は記号列であるが,ただ適当に記号を並べれば良いのではない.例えば,日本語であれば「あうぐまわさぼへそ」などと言った文字列は (通常) 意味を持たない.有効な日本語とは,「私は学生だ」などといった主語,述語などの文法規則を満たすような記号列でなくてはならない.
 さらに,文法規則を満たしているだけでも (一般的に) 意味が通る文章とはならない.例えば,「私はペンだ」という文字列は (常識的には) 不自然なものである.したがって,真に有効な文字列を考えるためにはその意味にまで立ち入らなければならない.
 上述のような「文法規則を満たした記号列」という意味にまで立ち入らない立場を統語論 (syntax),意味にまで立ち入るような立場を意味論 (semantics) と呼ぶ.
 これをさらに数理的に考察する.自然言語 (我々が日常使用するような日本語や英語などの言語) の文法には変則的な規則が多くあるが,数理的に考えるにあたって,一切の例外なく形式的に文法が定まるのが望ましい.そのような言語を自然言語に対して形式言語 (formal language) と呼ぶ.形式言語は自分自身を再帰的に参照し,帰納的 (inductive) に定義される.例えば,足し算 (+) とかけ算 (×) と 1 桁の数字だけからなる形式言語 $${L}$$ を定義してみよう.
 記号列の集合である言語 $${L}$$ を以下の性質を満たす最小の集合として定義する:

  • (L1) $${\mathtt{0} \in L, \mathtt{1} \in L, \cdots, \mathtt{9} \in L}$$

  • (L2) $${\forall x, y \in L.\ x + y,\ x× y \in L}$$

 ここで $${\mathtt{0}}$$ のようなタイプライタ体の数字は実際の数字ではなく,こういう形の (今のところ無意味な) 記号だと思っていただきたい.一方,見やすさのため通常の数字を $${\bm{0}}$$ のように太字で表記する.すなわち,$${\bm{0}}$$ や $${\bm{1}}$$ は数字の 0, 1 であり,$${\bm{1} + \bm{0} = \bm{1}}$$ のように計算ができるのであるが,タイプライタ体の $${\mathtt{0}}$$, $${\mathtt{1}}$$ は (今のところ) $${\mathtt{1} + \mathtt{0} = \mathtt{1}}$$ のような計算はできない,「$」や「^」のような記号なのだ.言語 $${L}$$ の各要素はこのようなタイプライタ体の数字と,$${+,\ ×}$$ という 12 種類の記号が一次元的に並んだ記号列である.
 さて,例えば,$${\mathtt{2} + \mathtt{3}× \mathtt{4}}$$ という算術式は言語 $${L}$$ に含まれる.これは,(通常の算術式に倣って計算順序を括弧で表すなら) $${\mathtt{2} + (\mathtt{3}× \mathtt{4})}$$ と分解することができ,まず (L1) より $${\mathtt{3},\ \mathtt{4} \in L}$$ であるから,(L2) より $${\mathtt{3}× \mathtt{4} \in L}$$ である.よって,さらに (L1) より $${\mathtt{2} \in L}$$ なので,(L2) により,$${\mathtt{2} + (\mathtt{3}× \mathtt{4}) \in L}$$ である.
 (L1),(L2) のような帰納的定義が言語 $${L}$$ の文法であり,文法に従うような記号列のみが $${L}$$ に入る.ここまでが統語論である.
 続いて意味論を考える.さて,先ほどの式 $${\mathtt{2} + \mathtt{3}× \mathtt{4}}$$ の意味を考える.ここでいう「意味」とは,その記号列 (言語) が伝達したい情報である.言語 $${L}$$ の場合は,足し算 (+) とかけ算 (×) と 1 桁の数字からなる算術式なのだから,伝達したい情報としては (それをタイプライタ体ではなく対応する通常の太字の数字としてみた場合の) その計算結果であろう.故に,$${\mathtt{2} + \mathtt{3}× \mathtt{4}}$$ の意味は $${\llbracket \mathtt{2} + \mathtt{3}× \mathtt{4} \rrbracket = \bm{2} + \bm{3}×\bm{4} = \bm{2} + \bm{12} = \bm{14}}$$ なので $${\bm{14}}$$ である (太字の数字による意味の付与を $${\llbracket \cdot \rrbracket}$$ で表した).
 このように,タイプライタ体の $${\mathtt{2} + \mathtt{3}× \mathtt{4}}$$ は単なる記号列であり,(このままでは) 意味がないのであるが,それを実際の数字と結びつけることで計算することが可能となる.
 上記の例では,記号と実際の数字が同じなため,今ひとつ言わんとしていることが伝わらないであろうから,より極端な例を出そう.ここに "!#$%&[]{};" という適当な 10 文字の記号列を用意する.これを先頭から $${! \mapsto \bm{0},\ \# \mapsto \bm{1},\ \$ \mapsto \bm{2},\ \% \mapsto \bm{3}, \ldots,\ ; \mapsto \bm{9}}$$ という風に通常の数字と対応づけるものとする.そして,(L1) を以下の (L1') に置き換える:

  • (L1') $${! \in L,\ \# \in L,\ \$ \in L,\ \% \in L, \& \in L,\ [ \in L,\ ] \in L, \{ \in L,\ \} \in L,\ ; \in L}$$

こうして定義される言語 $${L'}$$ において,先ほどの $${\mathtt{2} + \mathtt{3}× \mathtt{4}}$$ を表現すると $${\$ + \%×\&}$$ となる.このようにすれば言わんとしていることがわかるのではないだろうか.$${\$ + \%×\&}$$ という文字列を「計算しろ」と言われても,(通常は) 意味不明である.文字列を形成する各記号が,より扱いやすくわかりやすい対象 (今回の場合は通常の数字) にどう結びつくのかという対応関係 $${! \mapsto \bm{0},\ \# \mapsto \bm{1},\ \$ \mapsto \bm{2},\ \% \mapsto \bm{3}, \ldots,\ ; \mapsto \bm{9}}$$ がわからなければ,この文字列を読み解くことができない.この対応関係のことを解釈 (interpretation) といい,「より扱いやすくわかりやすい対象」のことをモデル (model) という.
 上記の解釈という用語は,通常の意味での自然言語に対する「解釈」とよく対応している.例えば「私は学生だ」という自然言語の文章を考えてみよう.これは文法に従う有効な日本語の文字列であるが,その意味を考えるには,「私」「は」「学生」「だ」という各構成要素の意味を考えなくてはならない.これらの最小の構成要素は,心の中の概念という心的記号と結びついていると思われる.例えば,「私」であれば「発話者自身のこと」,「学生」であれば「小中高大に通っている人」というように.これらを総合してこの文章の伝えたい情報を読み取るのだ.つまり,「心の中の概念という心的記号」が先ほどのモデルに対応し,これらの結びつき方が解釈に対応する.解釈という語が「複数ありうる」ということを連想させるように,この結びつき方が異なる人が受け取ると意味も異なってくるのだ.
 私は以上の例で,言語を理解するとは統語論と意味論という 2 つのレイヤーがあり,始めの統語論のみでは意味のない単なる記号列に過ぎず,モデルがあって初めて意味を受け取ることができるということを強調したかった.特に母語では,この 2 つのレイヤーがシームレスに機能してしまうので,改めて意識することは少ないかもしれないからである.あるいは逆に外国語を訳すときのことを思い出すとわかりやすいかもしれない.文法を学び,各単語の意味を調べることで翻訳することができる.この際,外国語の辞書は単語に紐づくモデルを直接伝えることができないために,そのモデルを母国語で表現し直して間接的に意味を伝えていると言える.
 つまり,言語という一次元の記号列を読み解くためには,モデルや解釈が必要なのだ.これが「論理は一次元的」「理解は二次元的,実感は三次元的」を分つものだと私には思われる.数学や物理を記述するのは自然言語であるから,当然一次元的である.だが,その一次元の文字列をただ眺めているだけでは,意味を受け取れずに理解できない.それをより扱いやすく,想像しやすく,わかりやすい対象 (モデル) に結びつけなくてはならない.数学や物理の場合は図示することや,触覚などの五感や直観になぞらえることが有効なモデルとなる.
 逆に言えば,言語とは人間がモデルを直接伝達できないために考えられた苦肉の策なのだ.人間はモデルしか理解できないと言い換えてもいい.モデルとは (人間の物事の認識という観点では) 人間が理解できるように複雑なものを捨象・圧縮したものであり,これが「心の中の概念という心的記号」である.人間は,世界とそこから得た経験を,扱いやすく,想像しやすく,わかりやすいように要点だけを抽出して記憶したモデルを頭の中に持っている.そのような形でしか人間は物事を理解できないからだ.しかしながら,それを直接伝達する手段がないために,一次元の記号列にシリアライズしていると言える.
 論文等においては,読み手の理解を助けるために図を挿入するということがよく行われるが,これは文章とは違ったモデルの伝達形式で,効果的に使えば文章よりも正確に伝達できるのだ.なぜなら,文章が 1 次元的なのに対し,図は (通常) 2 次元的であり,より豊富な表現が可能であるからである.同じことは表という形式にも言えるであろう.本来の目的はモデルの伝達であり,文章や図示はその手段に過ぎないのだ.
 ゆえに,「論理は一次元的,理解は二次元的,実感は三次元的である」という標語は,「一次元的な文字列をそのまま見るのではなく,それを書いた人のモデルをできるだけ正確に受け取れるよう,図示や五感などの自分の中のモデルを総動員して推測せよ」という意味だと私は解釈した.

《見る者》と狂気の関係

 『東大理三の悪魔』では,《見る者》という通常の数学や物理の天才である[知る者]を凌駕する能力を持った人が登場する.《見る者》は,普段は正体不明の小人による幻聴や幻覚に苦しめられる.言っていることは健常な者には支離滅裂に聞こえ,時たまトランス状態に至り,《見る》ことで,周囲の[知る者]の閃きを引き起こす.
 これは言うまでもなく統合失調症を念頭に置いている.古代の言い方で言えば,シャーマン——平時は忌み嫌われているが呪術的な能力を持つと考えられ畏怖された人々——やイタコ,巫女に当たるだろう.シャーマンは薬物によってトランス状態に至ったと聞くし,統合失調症患者は「魔術的な言葉遣い」をすると聞く.実際,私も SNS でそれらしき不思議な言葉を操る者を目の当たりにしたことがある.彼らは,我流で編み出した超常的,霊的な理論を操り,その異様な言葉の雰囲気から,「この人は何か超越的なものに接触したのだ」という印象を与えうる.これが古来より信仰の対象となってきたと考えられる.本書では,これを「真理が見えていてもそれを表現する語彙を持たないので常人には支離滅裂に聞こえている」と解釈している.つまり,「神の言葉は人には届かない」のである.
 本書の中で《見る者》として描かれる間宮は,

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