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大学受験の思い出

中3の弟が受験勉強に精を出している。本番まであと10日ほどだ。
分からない問題があると僕が教えるのだが、勉強を見ているうちに自然と今から9年前の大学受験が思い出されてきたので、折角だから綴ろうと思う。

その大学固有の試験を受けずに入学する、という割と稀有な体験をした。

⒈東大受験

小さい頃から人よりは勉強ができて、高校は地元で一番の進学校に進学し、そこでも学年で10番以内に入るくらいの成績だった。

その程度の成績だと東京大学を受ける人が多いので、漠然とそうなるのだろうなと思っていた。

しかし2年から3年に上がる頃に急に勉強する意味が分からなくなった。

それまでは「勉強はしなければいけないもの」という外部からの義務感でもってやっていたのだが、自己の動機を考えてみた時にそれが全く思いつかなかった。

何のために勉強するのか、大学に入って何をするのか、大学を出てどうするのか。

その瞬間から自分の中の「人生」の歯車が止まったような気がして、それは現在も止まったままだ。なんと無為な10年だろうか。

話が逸れたが、そうした疑問を抱いてからの1年間、全く勉強しなかった。
誇張でなく全く勉強しなかった。

気付けば1月になっていた。
しかし家族や先生に「勉強していない」など口が裂けても言えないので、真面目な受験生の仮面を被った僕は東京大学を受けることになっていた。

センター試験は国語で若干失敗したものの思いの外よくできた。900点満点で800点を超えた。こうなると僕が東京大学に出願することを疑う人は誰もいない。
首尾よく周りを欺けた、ということだろうか。

センター利用で東京理科大学に合格した。この点なら当然の結果なので何の感慨もない。

2日に渡って行われる国立2次の予行演習として、私立の東京理科大学と慶應義塾大学を2日連続で受験してホテルに一泊した。既に受かっている大学を受験するのは何ともバカバカしい。

と思っていたら、1日目の東京理科大学の数学が全く解けない。1科目目なのに止まらない冷や汗...。2科目目の物理・化学も全く解けない。
完全に終わったな、これ...。
理科大は行く気ないしそもそも眼中になかったから過去問など一問も解いていない。油断大敵とはこのことだ。

2日目は慶應義塾大学の試験である。理科大が惨憺たる結果に終わったのに慶應に受かるわけがない。1日目の理科大の試験後、ホテルに行かずにこのまま帰ろうかと何度思ったか分からない。
しかも慶應の過去問も一問も解いていない。前日にホテルで受験票を確認して初めて各教科の試験時間を知ったという為体である。

失意の中で慶應の試験問題をめくったら驚いた。
解ける。分かる。昨日が嘘のようにペンがスラスラ動く。1科目が終わった頃には合格を確信していた。

案の定、理科大は落ちて慶應は受かった。これもなかなか珍しいと思う。
ついでに言えば東大は落ちた。

東大の合格発表は3月10日だった。明後日の12日は東北大学の後期入試だ。
距離があるから明日の11日には出発しないと。

そう、2011年3月11日だ。

⒉受験で被災1日目

仙台には14時半頃に着いた。
恥ずかしながら東北は全て田舎だと思っていたので、駅を出た時はその都会ぶりに驚いた。

その日に泊まるホテルに向かう途中の横断歩道で待っていると足元が急に縦に揺れ始めた。
すぐ隣に新幹線の線路があるので「ずいぶん揺れるんだな」と暢気に思っていたら、直後に激しい横揺れに襲われた。

立っていられない。向こうの高層ビルが振り子のように揺れている。
長い。あまりにも長い。いつまで揺れているんだ。

揺れが収まると市内の道路中に人が溢れた。ビルの中にいる人たちが一斉に出てきたのだ。コック帽をかぶった人、制服に身を包む人、皆着の身着のままだ。

それからは泊まるはずだったホテルのロビーでひたすら待ち続け、日が暮れてから近くの中学校へと移動した。
受験のために遠路はるばる仙台にまで来て、史上最大の地震にあうとはなんとも滑稽だ。東大に受かっていたらこうはならなかっただろう。勉強しなかった罰だ。

来週は卒業式なのだろうか。
中学校の体育館に入ると綺麗にパイプ椅子が並べてあり、壁には紅白模様が目に眩しかった。この椅子が絶妙に邪魔である。

中央にあるストーブの周りに人が集まっているので、お邪魔する。
特にすることもないせいか、自然と皆話し始める。
岩手から買い物に来たおばさん、茨城から観光に来た2人組の女性、青森から受験に来た親子、同じく青森から就活に来た若い2人組の女性...。

未だに彼らのことはよく覚えているし、ふとした時に思い出すことがある。元気にしているだろうか。
東北大の受験に来たと言ったら驚かれた。こちらでは慶應より東北大の方が優秀らしい。

その日は結局横になれず、座ってうつらうつらしながら夜を明かした。

⒊被災2日目

夜中に何度も緊急地震速報で起こされる。常に地面が揺れているような気がする。「余震」とは言うがいくらなんでも余りすぎだと思う。

依然として水、電気は止まっている。
夜のトイレには蝋燭が灯っていたが、明け方にはそれも尽きてアルコールランプに変わっていた。いかにも中学校らしいが蝋燭の方が遥かに明るい。新たな知識を得た。
手は屋上プールの残り水で洗った。

午前中に水とわかめご飯の配給があった。わかめご飯は水で戻すタイプのもので、芯が残っていたがこれほどまでに美味しいわかめご飯は食べたことがない。

ご飯の配給はこの中学校の生徒と思しき人たちが率先して行っていたが、自分より年下で自分よりも被害が大きいであろう彼らから受け取るのは羞恥であり、感謝であった。また渡すときの笑顔が大変眩しい。

午後には電気が復旧し、その瞬間には歓声が起こった。電気のありがたみを再認識した。

僕のような短期の被災者にとって最大の敵は「暇」である。することがない。本当にすることがない。娯楽もない。ラジオは一応流れているが情報が入らない。
夕方に2回目のわかめご飯の配給があった。うまい。

この日は配給された毛布(という名の分厚いフェルト)に包まって冷たい体育館の床の上に寝た。緊急地震速報に何度も起こされたのは言うまでもない。

⒋被災3日目、4日目

まだ駅は復旧しないらしい。
しかし県庁から山形行きのバスが出ると言うので朝からバス停に並ぶ。5、6時間待ってようやくバスに乗った。もう行列には並びたくない。

山形に着くともうそこは日常だった。電気、ガス、水道全てが通じている。
やっと抜け出せたという安堵感に包まれた。
鶴岡まで行かないと電車がないというので鶴岡までバスで移動した。
着いた頃には日も暮れていて、この日は宿に泊まった。布団は柔らかく、暖かい。

翌日は新幹線で新潟を経由して群馬まで帰り、こうして長い受験に終わりを告げた。

結局東北大の入試は無くなり、センター試験だけで合否の判定が行われた。毎年、東北大理学部の後期は倍率が8倍程度あるらしいが、ここでセンターの800点超えが生きてきて合格することができた。
普通に受験したら落ちていただろう。
わざわざ被災したんだ。これくらいの報酬はあってもいいはずだ。

P.S.

地震のおかげで東北大は年度始めが1ヶ月ずれ込み5月に入学した。
と言っても入学式は無かった。

先の安倍総理の要請によって、弟は呆気なく中学校最後の日を迎えた。もちろん卒業式はない。

卒業式や入学式のような式典は、形式だけのもので無意味なものだと常々思っていた。しかしいざ入学式なく大学生になると、なんだか変な感じがする。高校生ではないが大学生になったような感じもしない。何とも不思議な気分だった。

弟のクラスの担任の先生は初めて1年から3年まで通してクラスを持ち、卒業式での皆んなの門出を楽しみにしていたはずだが、急遽それを奪われてしまった。
教室では我慢できずに泣いていたらしい。

コロナ対策でやむを得ないかもしれない部分もあったのかもしれないが、彼女のやるせなさを思うとなんとも言えない。

卒業式で担任を持っていただいたお礼を言いたかった。
僕と殆ど変わらない年齢でその大役を果たした彼女には頭が上がらない。

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