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心理の本を読むことでうつ病から回復した話②(中学・高校編)

読んでくださってありがとうございます。
機能不全家族のもとで育ち、精神疾患(うつ病など)で苦しみ、そこから回復した自分の半生を書きたいと思います。
段々と生きづらさを抱えていく中学・高校編になります。
前回の話はこちら

アイデンティティ崩壊

中学受験で何とか親が志望していたレベルの中高一貫校に入れた自分。
あれだけ勉強を頑張ったのだから、楽しい中学生活が待っていると思っていました。しかし、そこで待っていたのは想像と違う学校生活でした。

入学当初は友達もたくさんできて、とても楽しかったです。中学1年生の最初の中間テストまでは。最初の中間テストで自分の成績は270人中ので180位でした。下から数えたほうが早いなんてことは今までありませんでした。

それはとても衝撃的な出来事でした。自分が他の人よりも優れていると思っていた自尊心が崩壊したのです。当然父親には死ぬほど怒鳴られました。

とはいえ、この時すでに気づいていました。
上には上がいて叶わないこと。自分は努力して天才のふりをしていた凡人だということに。
この時自分は頭がいいことをアイデンティティにするのはやめることにしました。その代わりに違う目標を立てることにしました。

優しいひとになる!

母親は自分に対していつも言っていました。
「人に対して優しくした分、それは必ず返ってくる。人を思いやれる人になりなさい」と。父親も自分に対しては「なおとは俺と違って優しいやつだから」と。

自分は父親のことは尊敬していましたが、いくら仕事ができても勉強ができても、怒鳴り散らすところは好きではありませんでした。
そこで自分は人に嫌がることをするのはやめよう、父親を反面教師にして優しい人間になろうと決意したのでした。

そしてゆくゆくは今みたいな殺伐とした家庭じゃなく、自分で幸せな家庭を築くことを将来の夢にしました。

父親の不在と成績の下降

中学2年生のころ、父親が結核になって半年ほど入院したことがありました。自分はその時、父親に今まで束縛されていた思いを開放するかのごとく、ゲームキューブやPS2などで遊びつくしていました。友達ともたくさん遊び、部活のテニスを楽しみ、青春を満喫しました。

しかし、その影響で成績はどんどん落ちていき学年で200番台まで落ちてしまいました。そして、自分が中学3年生になったころ、父親が退院します。

父親は堕落した自分を見て、激怒しました。
「何のためにお前を進学校に行かせたと思っているんだ。遊ばせるためじゃない。お前のためを思っていい大学に行かせるためだ。誰がお前の学費を払ってやってると思ってるんだ。お前どんだけ腑抜けてんだよ。こんなもの(ゲーム)はお前をだめにする。」

そういって、ゲームキューブを自分の目の前で床に投げつけ、破壊しました。そして、母親から持たされていた友達とのやり取りで使っていた
携帯電話(ガラケー)を逆パッキンされました。

この時、自分は悲しい、怖いという感情をなるべく感じないようにして、文字通り凍っていました。

そして、父親に投げつけられた壊れた携帯電話を見てこう思いました。「ふーん。携帯の折れ目って、配線つながってるんだ。」
この時、つらい感情は感じないようにすることを覚えました。

そして、父親の怒りがおさまり、部屋にもどった後、母親に言われました。「あんたがちゃんと勉強しなかったからこうなったのよ。反省しなさい、テニススクールも行くのやめて、勉強しなさい。」そう言われて、自分は泣きながらテニススクール(習い事)に電話し、やめることを伝えました。

母親は自分の味方じゃなかった

自分は母親を味方だと思っていました。

しかし、それは自分が成績がよく天才と呼ばれて頑張っていたからだと気づきます。今の自分は遊んでばかりで、成績もよくないダメ人間です。そんな自分のことを母親は嫌だったのです。

自分は何か成し遂げていないと見捨てられるということを学びました。

世間体を気にする母親はそういえば小学生の時からそうでした。「あの子の父親は大学も出ていないから、あの子と仲良くするのをやめなさい」そんなことで自分の友人関係に首を突っ込むような人でした。

母親は父親が怒鳴るときに窓を閉めていました。近所に怒鳴り声が聞こえないようにするためです。

母親に父親がいないときに離婚してほしいと頼んだこともあります。しかし、決まって母親は「あの人も仕事で大変だから」と言って聞き入れることはありませんでした。離婚は家庭環境がうまくいっていない証拠で母親にとっては受け入れがたい事実なのです。

自分は家族の中でぽっかり穴が開いていて、その穴を必死に覆い隠すようなイメージを持っていました。その覆いを自分が引っ張ると、それは取っちゃだめなんだと叱られました。波風を立てて覆いはとってはいけないのが、家族のルールでした。

突然涙がぽろぽろと零れ落ちる…死にたい

そんなこんなで自分は高校生になり、受験間近の高校2年生になっていました。この頃から段々と自分の世界が暗くなってきたのに気付き始めます。

自分は優しい人間になろうと決めてから、常日頃から気をつかう性格になり、周りの目を気にするようになっていました。

周りの友達が行きたいところに文句を言わず、全て合わせて行動していました。そして、周囲の要求や期待を敏感に察知する行動ばかりしていたために、自分が何がやりたいのか、遊びたい場所やお昼に食べに行きたい場所など自分の欲求やニーズがわからなくなっていました。

自分は八方美人で学年の誰とでも仲良くしていました。嫌いな人がいませんでした。しかし、誰とも深くつながっている感覚はなく、どこか孤独感を抱えていました。

自分が話していないところで笑い声が聞こえるとすごく不安になりました。自分の悪口を言っているに違いない。なぜかそう思うのです。
席が前の方になるのが嫌でした。後ろで笑い声が聞こえるのが怖かった。

自分は友達と二人きりでいるときは会話ができるのですが、3人以上の人数になるといつも一人で歩いていて会話の輪に入れないことに気づきます。
とはいえ、こんなダメな自分と友達でいてくれるので少し孤独な感じはするけど、それはそれでいいのです。

ある日、友達から「これすごく笑えるから見てみて」と、その時ニコニコ動画で流行っていた動画を見せられます。それはいろんな人がずっと笑っている動画でした。これを見てると友達はみんなつられて大笑いしています。
自分はこの動画を見て、なぜ皆笑えるのかが分からなくなってました。昔だったら笑えていたのかな、そんなことを思っていました。

そして、ある日一人で下校登校している途中、突然涙がぼろぼろ零れ落ちてきました。なぜか胸には罪悪感のような重いものがあります。
唐突に死にたい、消えたいという思いが頭によぎるようになりました。

初めて精神科に行く

自分は何となく生きているのが辛かったので、精神科に一度行ってみたいと思うようになります。そして、母親に死にたいという思いを吐露し、精神科に連れていってほしいとお願いをします。

この時、母親は自分を精神科に連れていくのを相当躊躇していました。
この当時は今よりも精神疾患に関しての偏見がまだ根強く残っており、精神科は「キチガイ」が行くところという認識でした。

とはいえ、母親はどうやら自分が受験戦争で疲れてノイローゼ気味になっているのだろうということで、心療内科に連れて行ってくれました。
自分もまた、ここ最近勉強ばかりで疲れているから辛いのだと思ってました。

心療内科は学校の人に会わないような少し駅から離れたところに行きました。その時お医者さんに言われたのは、「受験で疲れているのだろう」ということでした。

自分が何をしたいのかわからないということを言うと、「アイデンティティクライシスですね」と言われ、具体的な診断名はこの時はつけられなかったです。

行った意味があったのかよくわからないまま、デパスやマイスリーなどの精神薬や睡眠薬を渡されました。

離脱症状…精神科治療に対しての不信感

最初はお医者さんに言われるがままに精神薬を飲み、しばらくはその心療内科に通っていました。そこでロールシャッハ検査や質問表などに記入するものの、自分はその時何も診断はされなかったです。

これで病気じゃないなら、自分が辛いのはただ自分が頑張れないだけで甘えなんだと思っていました。

精神薬を言われるがままに飲み続けていたのですが、楽になる感じは一向にせず、死にたい気持ちも消えません。飲むと頭がぼーっとするのが嫌で、記憶力が無くなっていくような感じがあって受験に支障をきたすと思い、ある時パタリと薬を飲むのを止めました。

薬を急にやめてから数日経ったある時、階段で急に力が入らなくなり、立てなくなりました。これは自分にとって相当な恐怖でした。何が起こったのかさっぱりわからなかったです。

心療内科に行ったときに上の状況を説明したら、「なんでいきなり精神薬を飲むのを止めたんだ」と酷く怒られました。そしてそれは「離脱症状」ということを教えてもらいました。

自分はそんな怖いことがあるなら先に説明してほしかった、病気じゃないなら何で薬を飲むことになるんだろう、ここに通っても全然楽にならない、怒られて怖いという思いから心療内科に強い不信感を持つようになりました。

そして心療内科に行くことをやめました。

ただ、父親と母親には「お前が行きたいといって連れて行ってやったのに」と言われ、自分が辛い思いを口にすると、「ちゃんと薬を飲まないから楽にならないんだ」と怒られました。

ある本との出会い

そんなこんなで心療内科に行くのをやめましたが、受験勉強は続けていました。ただ、その時自分は何となく他の友達とは辛さの感覚がどうやら違うみたいだということに気づき始めました。

自分は受験勉強で辛いのではないのでは?と薄っすら思うようになったのです。周りに死にたいと思う友達は誰もいませんでした。

受験が差し迫った高3の冬、自分は本屋で衝撃的な本と出会います。
その本は加藤諦三氏が書いた「自分に気づく心理学」という本でした。

  • 甘えることができなかった人はそのまま生真面目な大人になっていくことが多い。生真面目にしていないと周囲の人の好意が期待できないから。

  • 心を病んだ人というのは憎むべき人を憎まず、冷たい人に対して罪悪感を抱く。それはその冷たい人に心理的に依存しているからである。

  • 小さい頃やさしさに接することのなかった人は、他人から拒否されるのを恐れ、自分という存在の許しを訴える。

  • 尽くすという形でしか相手との関係を維持できない人ほど、人から尽くされたいと激しく欲している。

  • 支配的な親に育てられると、子供は自分の世界を持つことに罪責感をもつ。

  • 情緒的に未成熟な親に育てられた子は自然な感情を見失い、やがて生きることに無意味感がでてくる。

書かれていた内容は自分に当てはまるものばかりでした。どこからか湧いてくる罪悪感、自信の欠如、生きにくさなど。 そして、それが幼少期に育った環境に起因していると書いてありました。

自分ではそんなこと全然感じてなかったからすごく驚きました。自分はこの本を立ち読みしながら、必死に涙をこらえていました。

読んでから3日間は絶望感でいっぱいでした。自分が積み重ねたものなんてひとつもないように感じたのです。自分の人生ってこの本一冊くらいで語られるほど薄っぺらいものだと感じました。

この時から自分の生きづらさが育った家庭環境に原因があったことを悟ったのです。そして、この本との出会いをきっかけに両親のことを強烈に恨むようになります。

今回はここまでとなります。次回は大学受験失敗、浪人生前編に続きます。
長い文章を読んでいただきありがとうございました。

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