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認知行動療法の認知再構成法(コラム法)がうまくいかない原因

読んでくださってありがとうございます。
自分は機能不全家族で育ち、精神疾患(うつ病等)で苦しんだ経験があります。

今回は自分の経験談をもとに
認知行動療法の技法のひとつである、
認知再構成法(コラム法)が
なぜうまくいかないのか
うまくいくようにする為の心構え
を書きたいと思います。

ちなみに今回の記事はある程度、
認知再構成法という技法を
ある程度知っている人向けに書いています。
認知再構成法の解説は
また別の記事に書こうと思ってます。

「歪んだ認知」を悪いものと認識している

歪んだ認知という表現

認知再構成法(コラム法)は、
歪んだ認知を修正する」とよく表現されます。

これが非常によくないと自分は思っています。
「精神疾患の人は歪んだ認知を持っているから、症状が良くならないんだ」
と認識されても無理ありません。
そもそも歪んだ認知という表現自体が
ネットミーム化されており、
差別的な用語にもなっています。

また、歪んだ認知を修正するというのは

「自分はだめな人間だ」
   ↓
「自分はだめな人間ではない」

のようにネガティブなものをポジティブに
考え方を単に矯正するように誤解されます。

これは「歪んだ認知」=良くない考え
という構図を植え付けています。

認知再構成法(コラム法)を知っている人でも
このように思い込んでいる人は多いんじゃないでしょうか。

「歪んだ認知」というのは
アーロン・ベックが認知療法を開発した時に命名した英語の「distortion」というのをそのまま訳したところから来ています。

しかし、今アメリカでは
「distortion」から
dysfunction」と訂正されています。

これはどういうことかというと
「歪んだ認知」と呼ぶことが不適切だとして
「非機能的な認知」と訂正したことになります。

認知が歪んでいると言われて、
嬉しい人は誰もいませんよね。

非機能的な認知(歪んだ認知)の例

「非機能的な認知(歪んだ認知)」は
認知療法を開発したベックが
うつ病の人に良く見られる
特徴的な認知(思考)パターンをまとめたものです。

白黒思考
過剰な一般化
ポジティブ要素の否定

など代表的なもので10項目ほどあります。

下に例をあげます。

「テストで80点しか取れなかった。(ポジティブ要素の否定)
100点取れないと意味がないのに。(白黒思考)
こんなテストも出来ない自分なんて生きる価値がない。(過剰な一般化)
先生から嫌われていて陰で悪口を言っているに違いない。(結論の飛躍)」

こういったものが
「非機能的な認知(歪んだ認知)」になります。

そもそも認知はなぜ歪んだのか

そもそも何で認知は歪んだのでしょうか。
それは過酷な環境で生き抜くためには
「歪んだ認知」でいることが生き延びる術だったからです。

教育熱心な親のもとに生まれたとしましょう。
その親はテストで100点を取れないと、
あなたのことを認めてはくれません。

子どもの頃、
愛着の対象である親から見捨てられることは
経済的自立が難しい子どもにとって
生きる術を失い「死」を意味します。
子どもにとって、親とのつながりを失うことは最も耐え難いことです。

そんな中で
「テストは100点を取らなければ意味がない」
という考えはとても「機能的」だったのです。

身体的に虐待をしてくる
親のもとで育ったとしましょう。
その親は身体的に虐待をする理由として、
「子どもが~~できないから」という
躾という名目で子どもに暴力をふるいます。

子どもにとっては
「自分がだめな存在だから殴られるんだ」
と思っていた方が状況を理解しやすいです。

自分を守ってくれる存在であるべき
愛着対象である親を悪者にしない為には
「自分がだめな存在なんだ」と思いこむ方が
生きていく上で「機能的」なのです。

「自分がだめではない=殴ってくる親が悪い」
という発想になるのですが
この考えは自分を育てている親に歯向かうことになります。

親に歯向かうことは、
自分が親から見捨てられたり
更なる暴力を受ける可能性にもつながります。
状況がさらに悪化する考えになります。
それはとても「非機能的」なのです。

子どもは自らの辛い感情体験を押し殺し、
「歪んだ認知」を持つことによって
親とのつながりを維持します。

上記の例では家庭環境をあげましたが
学校のいじめ
DV家庭、ヤングケアラー
パワハラ環境のブラックな職場など
色んな過酷な環境でも当てはまります。

「歪んだ認知」というのは過酷な環境を生き抜くにはとても「機能的」だったものですが、
その環境を離れた時には
自分自身を苦しめる
「非機能的な認知」に変わります。

「歪んだ認知」を受け入れる

「歪んだ認知」と呼ばれていますが
過酷な環境に適応する為に
「歪まざるを得なかった」ものだったのです。

「歪んだ認知」にならざるをえなかった
自分をまずは労わってあげましょう。
受け入れてあげましょう。
それはあなたが
今まで必死に頑張ってきた証拠です。

「歪んだ認知」を
良くない考えと否定するのではなく
受け入れてあげる。
この受容がないと「歪んだ認知」の
パワーを弱めることは難しいです。

過酷な環境から抜け出せているかどうか

過酷な環境にいるときに
認知再構成法をやっても無意味です。
なぜなら上で書いたように
「歪んだ認知」はその環境では
「適応的」に働いているからです。

火傷を治したいなら、
原因である熱々の鉄板から
手をどける必要があります。
熱々の鉄板から手をどけずに
外側から冷たい風を送っても
火傷を治すには無意味なのです。

これは精神疾患も同様です。
環境が過酷な状況にも拘わらず、
薬を飲み心理療法を受けても良くなりません。

認知が歪まざるをえなかった環境から
まずは離れる必要があります。

これが精神疾患を治す上で
一番難しいところなんですけどね。

虐待的な親から離れられない。
稼ぐために仕事をしていなければならない。
DV夫から離れられない。
お金がないと治療すら受けられない。

生きていく為にはお金が必要です。
経済的な事情は本当に難しいです。
トー横界隈に若者が集まるのも理解できます。


こういう人たちを救う分野は
心理ではなく福祉だと思ってます。

話が少し脱線しました。本題に戻します。

認知再構成法(コラム法)は、
過酷な環境から離れて初めて効果を発揮します。

過酷な環境で身に着けた「歪んだ認知」と
過酷な環境から抜け出した
今の環境を照らし合わせることで
「歪んだ認知」が今は
「非機能的」になっていることに気付き
違う別の「認知」を持ってもいいかな
と思えるようになります。

教育熱心な家庭で育った結果
「自分は100点を取らないといけない」
と思い込んでいた人でも、
そこの環境から抜け出した時には
「100点取れない自分はクズだと思っていた。
けど、世の中で100点取れない人はいっぱいいる。自分はそういった人達をクズだとは思ってない。
だから自分も100点取れないからといって
クズだとは限らない。
そもそも完璧で居続ける人の方が
常人から見ると狂ってる。」
と思えるようになるかもしれません。

認知再構成法のイメージが少し違う

認知再構成法(コラム法)は
「Aという考え」

「Bという考え」
に矯正するというイメージは
少し違うと自分は感じています。

どちらかというと
「Aという考え」が根強いけど
「Bという考え」も出来るし
「Cという考え」も出来るし
「Dという考え」も出来る。

もともと感じてた「Aという考え」の他に
代替思考をたくさんあげることで
「Aという考え」が持っていた
パワーを弱めるようなイメージです。

「自分は勉強できないだめな人間だ」
という考えの他にも

「自分は勉強できないだめ人間かもしれない。
けど自分よりもバカな人間もたくさんいる。
その人らと比べたらマシなのでは?」

「自分よりもバカな人間でも
世の中で成功している人はいっぱいいる。
人間の価値って勉強だけじゃないのかも」

「自分の友達は自分よりバカだけどいい奴だ。
勉強出来ないってだけでこいつのことを嫌いになったりしない。
ということは自分も他の人からそう受け入れられているのかも」

のように沢山それに代わる思考をあげます。

もともとの考えは消えないけれど、
その他にも沢山選択肢があることを
自分の中で体験した事実などから認識すると
「自分は勉強ができないダメな人間」と
絶対的に思い込んでいた真実が
真実ではないのかもしれないと
思えるようになってきます。

他人を見下すような考えもありますが
もとの「自分は勉強ができないダメ人間」という認知が少しでも弱まればそれでいいのです。

代替的な認知を理想的な答えにしている

「自分は勉強ができないダメ人間だ」
    ↓
「生きていく上でダメな人間なんかいない」
と無理に思い込むことは意味がありません。

いくら優等生な「答え」を出したとしても
自分がその考えに納得感がないと意味ないです。

嘘の考えを自分の考えだと思おうとしても
それは本当にはなりません。

「理屈はわかるけど、
気持ちがついていかない。
頭では理解しているけど、
実際にそう感じられない。」
と感じられるような代替思考では
全く意味をなさないです。

ただ単に「頭」だけで考えた冷たい理解では
認知面の変容を表面的に起こしても、
より根底にある感じ方になかなか到達しません。

受け入れるしかない不快な感情もある

例えば、家族を養っているお父さんが仕事をクビになったとします。
「このままだと貯金がどんどんなくなっていく。
来月には息子の大学受験も控えているのに。
学費はどうしよう。生活費はどうしよう。
家族を養うことができない。
今の歳で雇ってくれるところは
一体どこにあるんだ。」
などと考え、不安になるかと思います。

このお金がなっていくことに対して
色々考え、不安を感じることは至極真っ当です。
ここで不安になることによって、
クビになったという出来事に対して
何かしなければならないという
行動欲求を駆り立てられています。

なので「お金がなくても何とかなるさ」
とポジティブな代替思考をあげてみても
自分自身納得できず、不安は解消されません。

「仕事をクビになってしまった。
自分は何も成し遂げることができない。
ダメな人間だ。」
という認知であれば、
検討できる余地はあるかもしれません。

変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そして二つのものを見分ける賢さを
持つことが大事です。

お膳立てのセルフモニタリングが出来ない

認知再構成法を行うにあたっては
まず、どんな場面にスポットを当てるかを決める必要があります。

その決めた場面で
自分が何にストレスを感じているか
どんな「非機能的な認知」が
自動的に起こっているか
その「非機能的な認知」によって
どんな不快な感情や身体感覚が生まれているか
といった自分を観察するスキルが必要です。

そのスキルはセルフモニタリングといいます。
セルフモニタリングについては下記参照。

しかし、このセルフモニタリングですが
これが出来ない人もけっこういたりします。

自分の感情に接触できない

セルフモニタリングが難しい原因の一つに
自分の感情に接触できないことがあります。

セルフモニタリングは
自分が不快だと感じた場面を切り取って
自分の認知、行動、感情、身体反応
を事細かく分析します。
しかし、感情に接触できないと
不快だと感じた場面を特定できなくなります。

そもそもなぜ
感情に接触できなくなるのでしょうか。
(ここから大幅に本線から脱線します。)

過酷な環境では、
怒り、悲しみ、恐怖といった
辛い感情を日常的に味わうようになります。
この環境を生き延びる為に、
辛い感情を押し殺すようになります。

悲しくて泣いていたら「男だろ泣くんじゃねえ」と怒鳴られる。
親に強く主張したり、怒ったら無視される。
自分がテレビをみて楽しい思いをしていたら
親に「あんたは気楽そうでいいね」と言われる。

このような環境で育つと、自分の感情を押さえつけて育つのも無理もないです。感情の蓋を押さえつけることが生きる唯一の道だったのです。

また、私たちは社会的文化の中でも
感情をコントロールすることを強いられています。

皆辛い思いをして仕事しているんだから、私だけ辛いと言ってはいけない。
ネガティブな人は嫌われる。楽しんでいるように見せないといけない。

男性が人前で恐怖や不安を見せることは男らしくないと受け取られます。
少しのことで動揺せず冷静に行動出来れば
成熟した大人であるとほめられ、
感情を露骨に見せることは
未熟な人とレッテルを貼られます。

理性の力によって感情を抑え、
感情に惑わされず目標に向かって進むというのがある種の美徳であるとも考えられています。

感情の役割

さらに話は脱線しますが、
感情の役割について考えます。

感情は人の健康に重要な役割を持っています。
感情は個人に大切な何かが起こっていることを伝え、特定の状況において必要とされる行動をする為の準備をします。

怒りや悲しみや恐怖のように感じると不快なものでも人類の進化の過程で未だに残っているのは意味があるからです。

悲しみはその人にとって大切な何かを失ったことを教えてくれます。
悲しんでいる人の姿は他人からの思いやりを誘い、悲しみを共有することで失われたものを
埋め合わせる機会が与えられます。

怒りは、他者から攻撃されたり、侵害されていることを知らせ、自分の境界を守る必要があることを認識させます。

恐怖は自分の身に危険が迫ったことを知らせ、
心臓に血液を送り逃げる準備をします。

感情は自身の欲求や身体の状態
どんな行動をとるべきか教えてくれるのです。

感情を抑制しすぎるとどうなるか

感情を抑えつけすぎると自身の感情への気づきが低くなります。
感情への気づきが低くなると
悩まされているもやもやした気持ちの正体を
言語化することが難しくなり、
感情をはっきり体験できなくなります。

極端な場合は解離症状も見られます。

また、感情を抑制するのが癖になると
その反動で感情はふとした瞬間に爆発することがあります。
ちょっとしたストレスにも過剰に反応するようになり、不快な感情に圧倒されます。
そうなると自己効力感を失い、
不快な感情を感じることが怖くなります。

不快な感情を感じることが怖くなると
感情を感じることを避けようと努力します。
(お酒を飲む、ODする、リストカットする、勉強にのめりこむなど)
感情を回避したり抑制したりすると、
不快な感情はいつまでたっても消化されず
その不快な感情はどんどん強まります。

感情を抑制することは
感情を回避する負のスパイラルを生み
さらに自身の感情への気づきが低くなり
自分の欲求を満たすことが難しくなります。

このような状態の時は、
自分が何にストレスを感じるのかがわからなくなり、セルフモニタリングを行うことが難しくなります。

感情への気づきを取り戻す

セルフモニタリングを行えるようになる為には
感情への気づきを取り戻す必要があります。

その為には、「今・ここ」の身体の変化に注意を向けることが重要です。
感情は、身体の変化を引き起こすからです。

悲しみを例にあげましょう。
・瞼が重く感じる
・胸がうずく
・肩を落とす
・目が潤む、涙が出る
・胃のあたりが痛く感じる
・全身が重く感じる

このような「今・ここ」の身体的な変化に
自分で気づきを向けるようにすると
感情への気づきが段々戻ってきます。

感情への気づきが戻ってくると、
その感情を引き起こすきっかけとなった刺激(出来事)を認識できるようになります。

感情への気づきを取り戻す作業は
マインドフルネスの練習でも可能です。

マインドフルネスの練習法についてはこちら

感情への気づきを取り戻すと
セルフモニタリングが
うまく行えるようになってきます。

以上、長くなりましたが
認知再構成法を行ってもうまくいかない原因を考えてみました。

ここまで読んでいただき
誠にありがとうございました。

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