中編小説 川詣でーかわもうでー(3)
はじめに
祖母の昔語りから書き下ろした「川詣で」の第三話です。戦時中の松江、兄の出征前夜に、母に手を引かれて渡った川。その向こうには神社があった…………。第一話から読みたい方はこちらからどうぞ。
https://note.com/naoko_i_tale/n/n5908d7200814
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兄に赤紙が来た。キヨ子は女学校に通う鞄から折り畳みの国旗を出して振った。家で振ったのは、初めてだった。万歳、そう言った。
出征前夜、母の声で目が覚めた。外はまだ暗い。「顔を洗っていらっしゃい。身を清めたら、お出かけいたしますよ」。ただならぬものを感じた。手拭いを顔に当てながら戻ると、母が藤色の着物を出していた。十三誕生に叔母から譲り受けたその着物は、戦火が高まる中、袖を通さぬまま箪笥で眠っていた。なぜ、今。母にくるくると駒のごとく着つけられつつ思ったが、聞けないまま草履をはいた。
行き着いた先は、川土手だった。白いしぶきが川石をじっとりと濡らしていた。
川の中州に神社がある。川に向かって開かれた鳥居。それは船をもつ者の特権ともいえる神社であった。いつからだろう、その神社に延命長寿の意味が込められるようになったのは。
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川詣でーかわもうでー(3)
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兄に赤紙が来た。キヨ子は女学校に通う鞄から折り畳みの国旗を出して振った。家で振ったのは、初めてだった。万歳、そう言った。
出征前夜、母の声で目が覚めた。外はまだ暗い。「顔を洗っていらっしゃい。身を清めたら、お出かけいたしますよ」。ただならぬものを感じた。手拭いを顔に当てながら戻ると、母が藤色の着物を出していた。十三誕生に叔母から譲り受けたその着物は、戦火が高まる中、袖を通さぬまま箪笥で眠っていた。なぜ、今。母にくるくると駒のごとく着つけられつつ思ったが、聞けないまま草履をはいた。
ひたひたと夜の町を歩く。月が随分と傾いていた。キヨ子は、できることなら夜明け前に帰りたかった。質素倹約が美徳とされているこのご時世に、意味もなく着物など着ていたら、どう思われるか分かったものではない。
行き着いた先は、川土手だった。白いしぶきが川石をじっとりと濡らしていた。母が裾をからげたので、キヨ子も倣った。ざぶり。無言で足を踏み入れる母にあわてて続いた。川の中州に神社がある。川に向かって開かれた鳥居。それは船をもつ者の特権ともいえる神社であった。いつからだろう、その神社に延命長寿の意味が込められるようになったのは。キヨ子も女学校で聞いたことがあった。「……さんのお母さんが、御参りしてたって」「……の一人娘の、そう彼女、渡ったらしいのよ。ほら、恋人が……」。武運長久のお社なら、川を渡らずともある。白いしぶきは、喉元まで迫っていた。危険を冒し、延命長寿を人知れず願おうとする母の思いに触れたキヨ子は、必死でその背中を追った。
静まり返った境内には小さな台と、賽銭箱があった。母は懐から五〇銭硬貨を出してねじ込むと、台から御札を取った。もう一度神社に手を合わせるや、逃げるように川へ向かい、また裾をからげた。風が、強くなっていた。川面には波が立ち、水をはらんだ衣が足にからみつく。指を踏み開き、膝を曲げ、母を追った。腰を落とした分だけ、流れが体を責めた。歯を食いしばって進んだ。
「あ」草履が足から滑り落ちる。そう思う間もなく、キヨ子の顔は濁流に沈んだ。焦れば焦るほど水を飲み、母に体を引き上げられるまで随分と長い時間が過ぎたように感じられた。がふ、と水を吐き出す。空気を吸おうとするのにまた水ばかりが肺にゆく。せき込むうちに突如体が傾いた。母の手が不意に抜かれたのだった。恐怖に母を掴むと振りほどかれた。お母さん。キヨ子の見開いた眼に、白いものが映った。お札だった。流れていくお札だった。母の袖がむなしく川面をすった。お札が、夜に呑み込まれていった。
兄の戦死が伝えられたのは、三か月ののちだった。誰も、なにも言わなかった。(続)
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ここまでお読みいただきありがとうございました。次の話は来週公開です。