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中編小説 川詣でーかわもうでー(1)

はじめに

 どこにいても、水の匂い、水の気配がする。それが私にとっての松江の記憶です。松江駅から松江城方面に行くと、どの道をとってもほどなく大きな川にさしかかります。松江を南北に分かつように流れるこの川が大橋川。中海と宍道湖という2つの湖をつなぐこの川には、4本の橋が架けられています。かつて、ラフカディオハーン、小泉八雲は、木造りの松江大橋を渡る際に下駄が奏でる「カラコロ」という音に心惹かれたと言い、その名をとった広場や建造物、和菓子なども松江の見所です。

 さて、この松江で生まれ育った祖母が、かつて不思議な話を聞かせてくれました。戦時中、女学生の間で語られた哀しい話。「あのとき、川を渡ろうとしてね・・・・・・」。その話を、どこかに書き留めておきたくて、虚構を織り交ぜながら、中編小説にしました。お楽しみいただければ幸いです。

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「あ」。車のハンドルを握っている泰子の後ろで、不意に老母が声を上げた。「どうしたの」、泰子はゆっくり息を吐いてから、同じく努めてゆっくりと尋ねかける。大きな声で、聞き取りやすく。母への言葉が幼子へのそれに近づいたことを嘆いた日々も、もう遠ざかってしまった。少し間が空いた。ごう、とトラックが迫っては、去っていった。大橋川が近づいてきた。「お地蔵さんがねえ、いたんだよ」「お地蔵さん?」「あっち側にねえ、いたんだよ。どうしたんだろうねえ、かわいそうにねえ。あれじゃ、寂しかろうに・・・・・・」
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川詣でーかわもうでー(1)

音声で楽しみたい方はこちらからどうぞ

「あ」。

 突然の声に、きくんと胸が詰まった。ハンドルを固く握りしめたまま見開いた目を左右の景色に走らせ、フロントガラス越しの灰色と緑を眺める。雨粒の間を縫うように、ガードレールが流れ、黄色い中央線が流れ、かすんで出雲富士。なんだ、いつもどおりじゃないの。声を上げた本人は後部座席で、額を窓につけるように外を見ている。

「どうしたの」

 ゆっくり息を吐いてから、同じく努めてゆっくりと尋ねかける。大きな声で、聞き取りやすく。母への言葉が幼子へのそれに近づいたことを嘆いた日々も、もう遠ざかってしまった。少し間が空いた。ごう、とトラックが迫っては、去っていった。大橋川が近づいてきた。

「お地蔵さんがねえ、いたんだよ」。

母は、再び言葉を探してゆらゆらと天井を見ている。その姿をミラー越しに認めながら、

「お地蔵さん?」。

泰子が言葉をなぞると、背中を押されたように、ぽつり、ぽつり。

「あっち側にねえ、いたんだよ。へんすの、あっちに……。」
「どうしたんだろうねえ、かわいそうにねえ。あれじゃ、寂しかろうに」

 デイ・ケアから戻り、母の食事を片づけ、時計を見る。十九時。今夜はもう、母と顔を合わせることはないのだろう。そこまで考えて、ようやく泰子は反芻した。

「あ」。弾かれたような声だった。生きた声を聞いたのは、ひさしぶりだった。“お地蔵さんが”“あっち側に”“かわいそう”“へんすの”。母が見たものは何だったのか。像を結ぼうとしても、言葉が散らばるばかりだった。ダイニングの蛍光管が痛んできている。天井に揺らめく影が、物思いを促していた。

 かちゃり、ばたん。玄関の音に引き戻される。それよりずっとかすかな、ただいま、というつぶやき。息子はどさりとリュックサックを置き、食卓に腰をおろした。コンロに火を入れ、冷蔵庫から総菜を出す。野菜のごろごろしたトマトスープをよそって、唐揚げを並べる。あっという間にそれらを流し込んだ息子は、イヤホンで武装をして、自室へと上がっていった。丸呑みをするように食べる一(かず)希(き)の前髪が目にかかっていた。

 夫の帰りは遅い。泰子は布団に横たわって、ぼんやり天井の豆電球を見つめた。一希が髪を伸ばし始めたのは、去年の春。小学校から坊主頭でバットを振り回していたのに……。高校に入ると、青あざを作って帰るようになった。腕に、腿に、見えないところにもあったのかもしれない。「ちょっと、練習で」「自分が、未熟だから」。目をそらしながらしゃべる、わが子が哀しかった。一学期も終わるころ、明日が保護者面談というタイミングで、「もう、いいかなって思って」、退部届を差し出された。押入れにエナメルバックをしまいながら、少しだけほっとしている自分がいた。

 でも、あれから、会話、減っちゃったな。私は、何を言っていいかわからない。一希は、親の前で胸を張る力を惜しんでいる。

 夏の夜は、静かで寂しい。昼間に蝉しぐれを浴びている反動だろうか。眠れない夜は、全身が、耳になる。遠くの虫の音や蛙の声を聞きながら、泰子の母、キヨ子もまた、ぽっかりと目をあけて、薄暗がりを眺めていた。

 赤いべべのお地蔵さん、かわいそうに。あんなに濡れて。どこにも行けん。手も伸ばせん。かわいそうにねえ。眠りに落ちる前、石造りのまる顔が、もう一度脳裏をかすめた。(続)

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ここまでお読みいただきありがとうございました。次の話は来週公開です。


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