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音楽関連書紹介「午後の曳航」(三島由紀夫著 新潮文庫)

※インターネットラジオOTTAVAで11/24(金)にご紹介した本の覚書です。

二期会が上演したハンス・ウェルナー・ヘンツェ作曲のオペラ「午後の曳航」(宮本亞門演出、アレホ・ペレス指揮新日本フィル 11月23~26日 日生劇場)をきっかけに原作を読み直してみた。
上演前に読んでおいて本当に良かったと思う。あまりにもこの小説が素晴らしくて、結局のところこのオペラの上演を観ている間も、ずっと三島の文体のことが頭を離れなかった。三島原作のオペラとしては黛敏郎の「金閣寺」のほうが作曲家としては自分のやりたい放題の音響世界(涅槃交響曲に通じるお経の魔力をシンフォニックに生かすという意味で)をやっていて、今回のヘンツェの方がずっと原作に近い印象を持った。ヘンツェの音楽は大衆小説的なわかりやすさと心理的な迫力とドラマティックな発展を併せ持っていて、演出の丁寧さとも相まって、受け入れやすいものだった。

「午後の曳航」は決して難解な話ではなく、三島の小説の中ではもっとも楽に読めるものの一つだろう。その中心にあるのは、戦後間もない横浜を舞台にした、13歳の少年登の性的な好奇心と想像力と、女ざかりの美しい母親房子とたくましい筋肉質な海の男竜二との愛のありさまである。ストーリー自体は他愛もないものだが、とにかく文体が素晴らしい。

「…黒絹のレエスを透かす臙脂(えんじ)はなまめかしく、彼女は女であることの柔らかさで、まわりの空気までも浸蝕してしまう存在だった。今まで竜二が見たこともない、贅沢で、優雅な女。
(中略)その深い翳りの中で、女の襞がしずかに呼吸しているのが感じられる。微風が伝えてくるすぐ近くの肉の汗ばんだ香水の薫りは、彼に不断に、死ね! 死ね! 死ね! と言っているかのようだ。繊細な指さきが、実にしのびやかな不本意な動きをしているのが、急に火の指のようになるときを竜二は想像した。
 何という形のいい鼻、何という形のいい唇、彼は碁をやる人が長考のあげくに置く石のように、房子の美しさの細部の一つ一つを、おぼろげな闇の中へ置いて眺めた。
 そしてそのひどく冷たくて、冷たさが淫蕩そのものであるような落ち着き払った目。世界への無関心が、そのまま裏返しに、捨て身の好き心を語っているような目。
(中略)それに何という色っぽい肩だろう。海岸線のように頸の岬から、いつはじまるともなくなだらかにはじまり、しかも威があって、絹ものがその上を、つつと辷り落ちるように造られた肩。」(47ページ)

この後に続く乳房や唇についての描写はさらに素晴らしい。文学が映像にも音楽にもまして迫力があると思えるのはこういうときだ。人生におけるセックスの価値が決して色褪せて貶められることなく、秘密と危険の力を得て、再び輝きだすのはこういうときだ。この部分、三島の書いた最も良質なポルノグラフィの一つとも言えるだろう。

思春期の少年が持っている、幼稚だがある面においては人生の本質を突く、凶暴な思考の鋭いきらめきも、この小説の大きな魅力である。

「こういうときの父親の、あらゆる独創性を警戒する目つき、世界を一ぺんに狭くする目つきを見るがいい。父親というのは真実を隠蔽する機関で、子供に嘘を供給する機関で、それだけならまだしも、一番わるいことは、自分が人知れず真実を代表していると信じていることだ。
 父親はこの世界の蠅なんだ。(中略)僕たちの絶対の自由と絶対の能力を腐らせるためなら、あいつらは何でもする。あいつらの建てた不潔な町を守るために」(147ページ)

ここには確かに真実もある。少年の立場からだからこそ言えるような、凄みのある言葉でもある。思春期特有の、凡庸さに対する憎しみが、これほど切れ味鋭い言葉で描かれているのに出会うと、活を入れられたみたいに不思議と元気が出てくる。

三島の他の作品を読んでいても感じることだが、これは言葉と観念によって作られた虚構だなと思う。だがその迫力は、読み手の現実生活の倦怠に暴力的なまでに乱入して攪乱し、心の奥底に眠り込んでいたかけがえのない炎のようなものを目覚めさせてしまう。エンターテインメントであると同時に文学であるゆえんだろう。
https://www.shinchosha.co.jp/book/105046/


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