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「施設が嫌」という変化から逃げると、家には居場所が消える。


「施設は嫌だ!」

「前のレスパイトの場所は嫌だ!」

いかに介護現場を感情的に決定してはいけないのか、ということをしみじみと感じる。

難病のALSの家族を自宅介護して1年以上が経過するが、介護現場でもそう、どこの現場でも、こう感じるものだ。

感情的に決定することにはとんでもない弊害が及んでいる。切迫した状況の中では尚更だ。

同時に、感情的決定も条件付きなんだろうと感じた。それは次回の記事へ。

私の家での介護も限界が来ている。まあ、限界と言っても、何度も来ているが、介護者である、私・兄・父・訪問介護・ヘルパーさん等、様々な方の思考と努力と行動で何度も乗り越えてきた。

ただ、もう乗り越えられないほどの場所に来ている。ラストスパートだろうと感じる。



昨年12月初めに、家族会議を行った。いよいよ、施設に入ることも検討しないといけないと感じた。私は論理的に考えて、一番危惧しないといけないことを言った。介護者の脱落である。睡眠不足により、父が倒れる。兄が仕事で怪我をする(製造を携わっているため)。私含め、誰か一人が新型コロナウイルスにかかる。そうなったときには、確実に自宅では見れないため、施設に入ることになる。

誰かが命に関わることになってから、施設に入るでは、明らかに遅い。誰も救われない。

その日に、いつ入るか、そして、いつレスパイトの予定を入れていくかの時期を数字として、決めていく必要があると感じた。

ただ、感情的な決定になった。「誰かがギブアップしてから施設に入る。」と。

それがいつなのかわからないのに、悠長な決定だ。だから、最後に聞いた。「これで本当にいいの?いつ頃ってちゃんと決めないとやばいよ!」と。声は消えた。



そして、この記事の執筆前(1/12.2時11分)に母の夜中のトイレと体勢変化をしてきた。

そのときに、事実を伝えた。

「もう無理です。だから、決定されていくと思う。俺も施設への入所の決定を推進して、数字として決めないと崩壊する。崩壊したら、私たちの家は終わります。そうなったとき、俺はあなたを恨みます。母だろうと関係ありません。」

側から聞いたら、かなりきついかもしれない。ただ、自宅介護の切迫をわかる人なら少しは伝わるかもしれない。

それでも、母は、

「嫌だ!レスパイトも別のところ探して!施設はまだ嫌や!」

もう、怒りさえ生まない。明日から施設への入所や次回のレスパイトを決めることにした。


介護は誰が悪いとかではない。だからこそ、感情的に決めると誰かが良い悪いの判断になる。

事実をしっかりみること、そして「最善の解決策」ではなく、「最悪の事故の回避策」を探すことが大事だ。なぜなら、もう「最善」はないからだ。


私は、母が悪いと思わない。

ただ、事実を見ない判断をするなら、こちらも手を打つだけの話。

みんな自分が一番であることは分かっている。大事なのは、それでも、全体の幸福を考え、解決策を提示できるかだ。



ここでサポートいただいたものは、全て私の母の病気への還元に使わせてただいています。