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傍観するだけの人生でもいい

以前に触れた「世代間トラウマ」について、もう少し心理セラピーを通して考えてみた。もしかしたら、私たちの世代にとっては、この(受け継いでしまった)トラウマを傍観、認識するだけでも意味があるのではないだろうか。・・・こう思われてきた。その経緯を綴ってみる。

まず、この動画を観ていただきたい。何年か前に観て、衝撃を受けた。

米発(英語)だが、何よりインフォメーション・グラフィックが素晴らしいので、英語のわからない方でも理解できると思う。まず、グラフに表示されている「ひとり」は、「1000人」を指している。それを基準にして、第二次世界大戦被害者の総数を国別にグラフ化していく。

グラフ上での、「ひとり」は「1000人」
被害者の総計をグラフ化

ここ8ヶ月以上も、セラピストを介して「世代間トラウマ」という視点から自分自身の家族の歴史を学んだあと、この動画を再び観て感じたことは・・・。

私たちの現時点「ココ」
私たち
全体像のようなもの・・・

上記のスケッチの大きな丸は、東京都庁並の高層ビル。この高層ビルを、前戦争の被害者たちの慰霊塔のサイズとしてみる。私たちのサイズはアリ、といったところだろうか・・・。

今まで、何もみえていなかった、と愕然となった。この狂った戦争から、2・30年遅く生まれたというだけで、私たちは命拾いをしていた。頭ではわかっていたものの、はっきりと認識したのははじめてのような気がした。

時間軸にそって、これをよく観察してみると、私たちの世代は人類史上最悪とまでみなされる大戦争のすぐ後に生まれている。私の両親はどちらも幼年期に、その悲惨さを体験していた。

以前のポストでも触れたが、ドイツの心理学者キューブラ・ロスによると、わたしたちは、喪失や大きなトラウマに触れたとき、まずは「悲嘆の五段階」を通るらしい。のちには他の心理学者たちによっても、多様な段階が定義されているが、このロスの5段階を参考までに、下に貼っておく(資料室「心と社会」 日本精神衛生会より引用)

第1段階:否認と孤立
第2段階:怒り
第3段階:取り引き
第4段階:抑うつ
第5段階:受容

これをよく観察すると、なんとなくこの5段階が、世代全体のマクロレベルで反映されている、とも感じられた。

つまり、私の両親の全人生が、まるで、この第1段階:否認と孤立に収まってしまっているかのようだ。母はこの典型的な例・・。幼年時に、戦争のせいで家族を失い、苦労ばかりの人だった。しかし、戦争の話はまったく後世である子供たちには話してくれなかった。まさに、否認、といったところだろうか。失った家族のことについても、認知症を患うまでは一切口にださなかった。いや、できなかった、のだった。父もしかり、だった。

私たちの世代自体がマクロレベルで、この次の段階である「怒り」、「取引」、「うつ」、「受容」に到るまでの段階を引き受けているのでは・・・。と思われてきたのだった。いや、上記で触れた前人未踏の大戦争の規模を考えると、このようなことがあってもおかしくない、と心から思った。

私たちの世代にとって、戦後のリベラル教育は「自分磨き」「自己のしあわせ」を求めて生きることを可能にした。歴史上のマクロ視点から観ると、これは本当に「新しい」こと・・・、だった。もしかしたら、私たちの通るべき自然の段階から、実は、とても心理的にかけ離れているのではないだろうか。しかも、前の世代は間違った前戦争を、おおやけでは否認したがっているようだった。このせいで、私たちの世代は目隠しをされてしまい、全体像が曖昧なままだった。

実は、私にとって、この「自己のしあわせ」自体が何なのかわからないときがある。私たちの世代は、本当に「しあわせ」にまつわるプレッシャーが多い。「しあわせ」とは「成功」で、「機能している人生」のような気がするからだった。また、日本では、戦後の教育は、その「しあわせ」のためのエリート養育やステイタス獲得のための、いわば刷り込みツールでもあった。

そこで、この「しあわせ」にまつわるプレッシャーと期待のレベルを、ここで、とことん下げてみることにした。もしかしたら、私の世代は「容認」にたどり着くだけで意味があるのかもしれない。それは、単に傍観するだけでもいい、ということだった。「自己のしあわせ」を追わなくていい。また、そのために、人生を「機能させる」必要はない・・・。

・・・私たちの生まれる少し前に、想像もつかないほどの膨大な数の人たちが、人生を「傍観」することもできず、戦死していた。これを考えると「自己のしあわせ」のためだけに、せせこましく生きるのはマトが外れているような気もする。

また、以前のポストでも書いたが、少し視点を変えて、日本で起こっている社会問題「ひきこもり」についても、つらつらと思いを巡らした。繰り返しになるが、この Hikikomori とは、10年ほど前に、英語に訳せない日本語としてオックスフォード大の辞書に掲載となった。それ以来、欧米メディアからの好奇心も高い。

私は、「ひきこもり」の人たちが、なんとなく理解できる気がする。批判なども、全くする気がしない。実のところ、私たちは皆、「紙一重」の存在だと感じる。もしかしたら、社会のしがらみの中で生きている私自身、「怒り」と「取引」の段階をこえたら、この「世代的なうつ」に行き着いてしまいそうだ、と怖くなる時がある。もしかしたら、歴史上、大規模な侵略戦争を始めてしまった日本の戦後に、このような人たちが存在するのは、自然の成り行きだ、とも思えてくるのだった。非道極まる大戦争という狂った究極事態の後遺症、または社会の自然治癒の一環とさえ思える。もしくは、「ひきこもり」の人たちは人一倍感受性が強く、世の隠されたメッセージを直に受けてしまう巫女のような存在なのかもしれない。

現代日本の社会問題は、「自殺」と「ひきこもり」だと、欧州メディアでは報道されている。このふたつについてよく考えると、私はどちらかというと「ひきこもり支持」派だった・・・。

もし、この社会問題がどちらも戦後「世代間トラウマ」によるものだと仮定すれば、「自殺」志向は日本軍国主義の名残のように感じられる。自分自身を、名誉やタテマエのために「殺す」、もしくは、自分自身を必要のないものだとみなして「殺す」。私は、これは絶対に支持したくない。もちろん、例外はあるだろうが・・・。しかし、やはり、これは殺人道で、宗教的またはスピリチュアルな視点からみても支持できない。根本仏教、テーラワーダ(ブッダ直伝の教え)によると、仏(ブッダ)も、自殺とは自分自身を殺すという点で、「殺人」であり、業(カルマ)の中でも最悪な因縁を、自ら作りだす行為だと語っている。キリスト教でも重罪とみなされ、中世の欧州では、自殺者のためには葬式さえ行われなかった。

それに対して、「ひきこもり」は、まだ自分自身は苦しくても、生き残り、世を傍観できる人たちだ。社会的なプレッシャーで潰れかかって、「こわれそうになった人たち」。私たちの世代は、傍観と認識ができるだけでいい。それ以上を望まなければ、それは意味のある人生だと言ってあげたい。

自分が「こわれて」しまっても、タテマエを捨てることにした自分を許し、苦しみながらも、ひきこもっても、生きる。こちらを支持したい。この世を観ることさえできればいい。

次のポストでも、これに触れてみる。では、この辺で。


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