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ほんとうに心に響くピアノ演奏とは

続行中の心理セラピーがついに、「ピアノ・ネタ」に行き着いた。

ピアノ、か・・・。70年、80年代に子供時代を過ごした日本の方々には分かってもらえると思う・・・。あの時代には、5歳、4歳くらいからピアノを習う羽目になった人たちも多かった。我が家では、私が習い始めたのは5歳半くらい、だった。なぜ、「我が家」という単位なのかというと、私の意思で始めたわけではなかったからだ。すべて、当時の「親の期待」によるものだった。当時のトレンドでも、「ちいさな女の子だったら、ピアノだね!」という軽いノリがあった。これについては、別のポストで書く。

このポストは、「ピアニストという定義を変えてみる」という目的で書いてみる。どちらかというと、リンク重視のポストだ。

なぜかというと、「ピアノ=パフォーマンス (出来映え、練習の成果)という定義でこれまで生きてきたので、ピアノを弾く楽しみがこの歳になるまであまりなかった。子供時代は、ピアノ検定のために弾かされたようなものだった。

まずは、悪い例。ピアノを弾く人たち、ファンは愕然とするかもしれない。お詫びを先に述べておく。

あの、80年代に日本を彷彿させた、天才ピアニスト・キーシン。彼のパフォーマンスはいつも「完璧の完璧」万人向けである。ノートのスピード、精確さ、まさしく一寸の狂いもない。しかも、このピアニストに選ばれた曲もすべて、リスト、ラフマニノフ、ショパンといった上級・作曲家による難解曲ばかりである。

確かにすばらしい・・・。だが、とても疲れる。ピアノ検定上級レベル曲の難解テクニック、すべてテンコ盛り、といった感がある。これでもか、これでもかと、それは限りなく続く、上級テクニック大披露の連続・・・。

・・・ということで、私はセラピストと一緒に考えた。ピアノを弾くとき、いつもこういった天才レベルのパフォーマーが頭に浮かんでしまう。コンプレックス、というか、それ以前に、絶壁レベルの差がある。未だ、子供時代からの、親やピアノ検定審判のプロパガンダに踊らされているからではないだろうか。

それで、大人になった今、ちょっとその定義を変えてみたらどうなのか、とセラピストが提案してくれた。パフォーマンス、つまりは、「練習の成果のため」にピアノを弾くのではない、と。

まず、「本当に心に響いたピアノ演奏」は何か、と考えてみた。クラシック、ネオクラシック、国内外アーティスト、巨匠、またはインディーなどカテゴリーにこだわらずに選んでみる。

まずは、J.S.バッハのカンタータ、「いざ、罪に抗すべし」のヴィキングル・オラフソン (Víkingur Ólafsson) によるピアノ版だ。(以前、引越し前のアメーバーにも書いたので、テキストをコピーしておく。やはり、心に響く名演奏だ)。オリジナル版はバロックの教会カンタータ音楽で、カウンターテナーによって壮大に歌われる。そのテーマは、俗的な罪と欲を戒める歌詞で明らかだ。このオラフソンによる独自のピアノ版は、その歌詞もなく、ただ「控えめ」に、本当に静かに弾かれている。バロック時代の一般人の共通テーマ(宗教的な「禁欲」)は、現代の西欧では、あまりなじめないものだ。

もともと、キリスト教徒でもない私が、オラフソン版を聴いて強く感じたのは、宗教的な禁欲ではなく、この演奏で表現されている人間の「ストイシズム」だった。このバージョンでは、歌声も歌詞もなく、ただ静かに、控えめに表現することに徹しているのみだ。これは、人間の繊細さと、内面の「自己抑制」の美しさを表現するための曲だ、と心から感じて感銘を受けた。

まさしく、「自己顕示」のためではなく、「内省」の演奏だ。

次は、ネオクラシックから選ばせていただく。最近、好きなのはポーランド人のモダン・ピアニスト、作曲家のハニア・ラニ (Hania Rani)。もとはというと、彼女はポーランドの名門ショパン音楽院でクラシックを学んだエリートだ。しかしながら、クラシック・パフォーマーの道を選ばず、独自の深い世界を創造するアーティスト的な道を選んだ。彼女の曲は、すべてどこか内向的な深みがある。

次も、モダン、ネオクラシックからのハルカ・ナカムラ(Haruka Nakamura) による曲。青森県出身、独学で音楽を学んだという。やはり、独自の世界を持っているアーティストだ。この演奏は、誰もいない寂れた教会で行われている。やはり、自分の内側を観るためのような曲だ。

またもや、ネオクラシックからのオラフゥエ・アーノルズ(Ólafur Arnalds) による曲。自分のリビングルームでの演奏。このアーティストは、幼年期はショパンなどのクラシック教育を受けているが、青年期はメタルとパンク・バンドの一員でもあった。

次は、巨匠。バッハ演奏で知られる故グレン・ゴールド (Glenn Gould)の「アート・オブ・フーガ」。完璧な演奏だが、非常に内向的なパフォーマンスである。まるで、観客に気づいていないかのようだ。

私は長年、ゴールドとバッハ、両者のファンなのだが、どちらかというと「機械的」なバッハの曲と演奏になぜ惹かれるのか、と問いてみた。派手さはない。ドラマティックなデコレーション・テクニークの多いショパンとは逆に位置付けられる作曲家だ。もしかしたら、バッハの曲には「隠された深い感情」があるからかもしれない(下、練習中のゴールド)。

そして、故坂本龍一による、最後の「戦場のメリークリスマス」演奏。これは永久保存版ともいえる動画だ。ひとつひとつのノートに心がこもっている。目の前に観客がいなかったせいか、プライベートな雰囲気の中、演奏は、とても叙情的で深く、美しい。死を予期した演奏だった。

お次は、英国発でカテゴライズ不可能?なベンジャミン・クレメンタイン(Benjamin Clementaine)。ピアノ弾き語りとネオクラシック作曲もこなす異色ブラック・アーティストで、黒人音楽のステレオタイプに全く当てはまらない。どちらかというとフィリップ・グラス (Philip Glass)のようなシュールなアーティストだ。詩人でもあり、歌詞も素晴らしい。

彼のピアノ演奏はとても繊細で、いつも詩とマッチしている。ピアノは彼にとって、自分の詩、芸術を表現するためのツールなのだろう。10代になってから、独学で、ピアノを始めたそうだ。もちろん、ピアノ検定などに興味は全くなかっただろう。それ以前に、そんな検定など、自己表現と詩の創作のためには、まったく必要もない。「目から鱗が落ちる」、とはこのことか。

詩の一部を下に意訳してみる。また感動してしまった。

(2:08 くらいから)
My mind is a mirror, a reflection only known to me
And for those who hate me, the more you hate me
The more you help me
And for those who love me, the more you love me
The more you hurt me

「心は鏡のようだ、
私のためだけに映しだされる

そして、私を嫌っている人たち、
もっと、私を憎むほど、
その憎悪で、私を救ってくれる

そして、私を愛してくれる人たち、
もっと、私を愛してくれるほど、
その愛情で、私を傷つける」

それでは、このへんで・・・。

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