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手探りの日々 見えてきた理想を追う【インタビュー②】

ここでは、先日公開したショート版では書ききれなかった金子直矢の「パーソナル」な部分をさらに掘り下げたいと思います。 金子と、記事を担当する清水は、互いに東京都江東区・深川が地元でバスケットボールを通じ切磋琢磨した30年来の付き合い。ここからはより“カネ”の生身の部分が見えるよう、私たちの関係そのままの言葉でやり取りを記したいと思います。地元民の間では「お不動さま」と呼ばれている深川不動尊の仲見世にて、話を聞きました。(聞き手・清水泰斗)


右が代表の金子直矢、左が聞き手の清水泰斗

金子 直矢(かねこ・なおや)。スタジオ ノヴァークス代表取締役社長 1987年生まれ。詳しいプロフィールはこちら

インタビューシリーズ
①ノヴァークスで成し遂げたいこととは
③トロントでの生活、広がった視野
④一流を経験 トレーナーとしても成長
⑤悩んで耐えたその先 継いだ「新星」
⑥つなぐ点と線 「えん」持ち星は飛ぶ
ショート版はこちら


中高時代に触れた職業像が初期衝動

――ノヴァークスのミッション、カネの描くビジョンは、トレーナーとしての経験から生まれていることを前回は聞きました。トレーナーとしてのキャリアを聞く前にそもそも、なった経緯は?

 中学の時、職業体験みたいなのに行ったの覚えてる?おれはフィットネスクラブを選んで、そこでトレーナーの仕事に初めて触れて。体験だから高度な何かをやったわけじゃないんだけど、ジムのマシンを触ったり、スカッシュとかをやらせてもらって「こういう業界いいな」て漠然と思ったのが一番最初かな。

 高校に進んで、入ったバスケ部にはトレーナーが来ていた。ウエイトトレーニングや怪我のケアを見てくれていて。メニューを組んでもらって、それをわからないなりにやったりしてる中で「あ、中学の時にフィットネスジム行ったな」てことも思い出して。それでその後に進路を考えた時に「トレーナーになりたい」て思ったんだよね。


2007年、専門学生時代に実習帯同していた青山学院高等部男子バスケットボール部と夏合宿にて。当時は治療院やテニス選手の実習もしながらフィットネスクラブでアルバイトもする多忙な日々だった


 今思えば、中学校の時にぼんやりと持っていた将来像が、高校生活で具象化した。だから大学進学って選択肢もあったけど、きょうだいも多いので早く社会に出たほうが家族のためにもなるし、就職率が高いという話を聞いて、2年制の専門学校に進んだんだよね。

――職業体験、「総合的な学習」で行ったね。俺たちはゆとり世代のファースト・ジェネレーションで、当時は子供ながらに「教える側も定まってないふわついた授業だな」と個人的には思っていたけど、まさかこんな近くで成果が出ているとは思わなかった笑。進んだ専門学校で、実務的な知識を得始めると。

 15年以上前の話で、当時はフィットネスクラブにトレーナーが常駐していることすら一般的じゃなかった。それこそ「パーソナルトレーナーをつける」って行為も、そんなのアスリートしかつけないでしょ?みたいな。今とは市場の規模も、人々の捉え方も全く違った。

 トレーナーと言えばチームに所属して、柔道整復や鍼灸とかのメディカルなことも扱える人材が求められていた。一人で十何人をみないといけないような。そこで「自分のやりたかったことって、もう少し密に個人とかかわることだよな」と思って、卒業と同時にパーソナルトレーナーの資格を取った。そっちの方が社会に早く出れる、というのもあって。

――そして専門を卒業して働き始める。

 パーソナルトレーナーをジムに派遣している会社に入った。そこで杉並区・下井草の店舗に通って、自分でビラを作り配って、営業をかけて。

 そのジムとはあくまでも業務委託契約だから、「場所は使っていいから自分で好きに営業していいよ」って形だった。

社会人1年目の20~21歳、働き始めたころ。ジムの営業開始から閉店までチラシ配りをしていたりとにかくがむしゃらだった。「この当時の経験が自分の土台なので当時のお客様にお礼を言いたい」


――へえ、そういうシステムだったんだ。そこでで話していた「ファストじゃないつきあい方」につながる考え方も醸成されていった?

そう。「自転車操業は大変だな」てジレンマにも陥りながら、結局4年くらい続けた。その間に違う店舗の立ち上げに携わったり、地域も変わったりしながら。でも、いまだにこの時期からみさせていただいているお客さまもいて、「当時はほんと生意気だったよね」なんて言われる笑。ありがたい話だよね。

――24歳くらいまでそういうサイクルで働いていたと。

気づいた英語の必要性が次の扉を開く


この業界は圧倒的に英語の情報が多いこと、所属した会社がそうした情報や外部セミナーとの接触を積極的にはしないことが見えてきた。なので、自分で情報を取りに行くしかなかった。
 それで、正しく膨大な情報を取捨選択できるように、英語を身につけようと思って。

一人ひとりのお客さまとじっくり向き合えるようにするためにも、自分自身の価値を高める必要を感じた。それをせず、薄利多売でセッションの数を増やすだけで売り上げを得ようとすると、自分が疲弊する一方で。本来はこちらが元気を与えなきゃいけない存在なのにさ。

――言い得て妙だね。「個に向き合いたい」がずっとカネの中にあるのも分かってきた。英語は、中学時代に同じ個人塾に通っていた者の意見としては、カネは決していい生徒ではなかったな笑

英語の勉強以前に、まずは英語の勉強の方法からもう一度学ばないといけなかった。セブ島に2カ月くらい滞在して、発音の仕方や初級レベルの文法から学び直して。1日14、15時間は勉強したかな。

――セブ島を経て、カナダ・トロントに1年間の留学。そして帰国し次のステップに進む中で今のカネになってくるのか。

③に続く

セブにて。学校に寝泊まりし、朝から晩まで英語漬けの日々。同居している生徒に向け、腰痛予防のストレッチや食事の助言などのサポートもしていた

WRITER
Taito SHIMIZU / 清水  泰斗

1987年、東京の下町・深川生まれ/育ち。新聞社で4年半、地方記者を経験。日本中の工芸やニッチな特産品の取材、アイヌ文化、サウナや銭湯、エスニックタウン、アンダーグラウンドカルチャー、マタギ文化、プラナカン文化などにも食指。日本語教師としても活動。

 メディアもファストな時代ですが、丁寧に、あらゆる分野に飛び込んで文章を書いていきたいです。

I was born and grew up in downtown Tokyo and now live here.
I'm writer who wanna write substantial article. Also working as a Japanese private lesson teacher

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