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死なない散文日記

もし人が落ちながら、すぐに自分の組織が粉みじんに砕けるのがわかっていながら、それでもなお自分の肉体の中に止まっていられるためには、信じ難いほどの意志の力が必要なのだ。

アンリ・ミショー詩集

これ、アンリ・ミショーだったか。これを読んだとき、なんて詩だ、と純粋に思った。読める言葉でありながら、この世の地に脚をついているとは思えない、あっちの世界との間をふわふわ浮遊する言葉。

何年か前、看護助手として勤めた療養病院に、線路に飛び込み生き残ったひとがいた。彼女が失ったのは脚の一部と、自我だった。果たしてそれを生き残ったと我々は言って良いのだろうか。ミショーに言わせれば、彼女の肉体に留まったのはほんの少しの光だけ。R.D.レインに言わせればそれは「死」だろう。彼はカフカの『変身』を「自我の喪失」の例として引用した。

みずから肉体を手放す瞬間。

それは神秘に満ちて、美しい。いつまでも憧れで、そのことはこれからも変わらない。" 次の瞬間、肉体はただの有機物になる" その行為の決断をする、この世の何より美しい意思の力。わたしが永遠に手に入れることのない強い意思。

何故かフロイトを読んでいる。元気という訳ではない時期に読むべきない気もする。愛情問題について考えることは苦しいが、昔よりも "思い出す" ことができる。母を。いや、母と過ごしたわたしの視点を。そして、それとは全然違う気持ちで父を想う。フロイトを肯定しているような変な気分になる。比較的、特定の考えに傾倒はせず、娯楽としたい主義なのでバツが悪い。そのあとで、いくらかの時間を共にした人を想う。「思い出」はどれも苦しいが、「過去」はどうで良い。思い出が持つのは、あくまで自己分析の領域としての "わたしの" 苦しさである。各々は自由に思考でも哲学でもしていれば良い。わたしは人間なので、他人を変える力も、過去を変える力もない。どうすることもできないことに対しては基本的に口を閉ざす(逆に、できることは何でもやってしまう節があるが)。まあ、それと、自己分析とは、全く違う話である。

職場では『ソラリス』の新訳を読むことで、隙間時間に誰にも話しかけないでいていただく。給料日、念願の内田樹の『他者と死者  ラカンによるレヴィナス』を購入した。世間は3連休で、わたしは疲れている。だが明日5時に起きて仕事に行くことくらい、わたしの人体には簡単にできる。勉強を始めることばかり考え、ラジオを聞く。直接言えよと思いながら、読んだよとラインすべきか、という考えが一瞬よぎる。しない。また勉強について考え、調べる。わたしは行動し、勉強するだろう。昨年取った資格は飾られたまま。日は暮れる。睡眠薬を飲む。死なないことは、忙しい。

逆に自我を保ったまま肉体を失う話をしたくなった。(その場合わたしはエイドリアン・オーウェンの『生存する意識』の話から初めるだろう)が、長くなるのでこの辺で止める。ハンバート ハンバートにそういう唄がある。


世界は狭い。この人体、これだけなのだから。

【余談】長い。


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