私が「幸せ」になる方法

2023/2/11 なんとなく非公開にしていたが再公開。とても懐かしい。

 これは例えば「幸せになるために必要な7つの意識」といったふわふわした啓発ではない。ただの自分語りである。つまり、おおよそ役に立たないであろう戯言よりも、もっと低俗なものであり、電車で隣のサラリーマンがつく溜息と同じくらい取るに足らないものであろう。貴重な時間を空費してしまいかねないため、できればここで読むのを止めていただきたいところだが、あなたが誰も得しない他人の吐露を好む好事家なのであれば、それはむしろ喜ばしいことなのかもしれない。

 まず、どうしてこのような小恥ずかしいタイトルにせざるを得なかったのか。それは、私が自身の幸せについてしっかり考えてこなかったことへの弔いと、己の人生についてあまりに不勉強だったことへの嘆きだからである。幸せとは何なのか、そんなことは二十歳過ぎるまで世迷言だと考えていた。なんと使い古されたネタだと。幸せを問うなんてかまってちゃんだろうと。しかしここ数年間で、その下らない問答をしてこなかったことを酷く後悔することになり、漸く今回、恥を晒すに至ったのである。

幼少期~中学時代

 現在20代後半の私がどんな少年だったか。何のことはない、一人でゲームをただ漠然と遊び、漠然と学校生活を過ぎ、適当に、将来のことを何一つ考えずただ漠然と生きているだけの餓鬼であった。これでは友達のいないぼっちだと思うのも無理はないだろうが、友達はいた。多くはないが、それなりに慕われ楽しい学校生活を送っていた。家では虐待されていたとか、ネグレクトを受けていたとかも特にない。最低限の常識は学んだはずで、無論、非行に走ったことは一度もなく、警察の世話になることなど、まさに夢物語であった。

 そう、私は清廉潔白であった。私を知る人間なら誇張だと横槍を入れるだろうが、細かいことは気にしてはいけない。大局的に見て、清廉潔白であっただろう。しかし、「できたらいいな」と思うことを、思っただけで終わらせて来たツケが、よもやこれだけの生き地獄を招くことになろうとは、露ほども思ってはみなかった。

高校時代

 運命の出会いは高校2年の夏頃であった。同じ部活の部員の友達との出会いである。彼を"C"と呼ぼう。特段、刺激に溢れたものではない。Cが当時好きだったアイドル(二次元)ものを、俗にいう布教をされただけである。そして、毎日のように学校帰りに一緒に街を練り歩く程の仲になったのだ。Cと遊ぶ日々は、新しい体験の連続であった。つまるところのオタクコンテンツというのは、私にとっては好むべくして好んだもので、還る場所を見つけた魂のように驚く程清々しく、のめり込んでいった。それだけでなく、学生らしい外遊び、例えばカラオケやゲーセンなどといった遊戯も初めて体験したのだ。本当に毎日が楽しかった。ただ、Cと接する度に私が無知で無能であると自覚するようになり、蟠りの種が育って行くのを感じていた。

 その後、程なくしてCとはつるまなくなったのだが、それについては本題とは関係ないため省略しよう。

 しかしながら、Cから受け取ったものはあまりに大きかった。それまでの私は一体何を思って、何を考え生きてきたのか、それ以前の意思の殆どは消失してしまったのだ。いや、元々なかったのかもしれない。私の人生において、初めて『私』が生まれたといっても過言ではなかったのだ。今でも、毎クール深夜アニメは見ているし、気に入った作品は追うし、当然「推し」というものも存在する。同人即売会とやらに参加したこともある。そうして愛すべきものだと、疑いようもないのだ。

正社員時代

 明確におかしいと感じたのは、私が正社員になってもうすぐ1年というところであろうか。そう、つまらない。毎日が全く物足りない。充足感がない。たしかに、学生の頃とは比較にならない程多くの物に手を出せるようになった。実家に生活費を入れ、好きなものを好きなだけ買い、ソーシャルゲームに課金したとしても、貯金は増えていった。しかし、なぜだろうか、満たされない。夢中になるゲーム、目を惹く絵、聴き入ってしまう曲、耽ってしまう話、素晴らしい作品に出逢う度、感動すると同時に私の心は焦燥に駆られてしまい、いつしか純粋に楽しめなくなっていた。

 一重に残業が多かったからだろうか、それも原因の一つだろう。その会社に私はプログラマーとして雇われた。プログラマー、といっても組込み系のでC言語を使うくらいだったが、職業訓練校の数か月のカリキュラムで習った趣味程度の技術で通用してしまったことや、私がやりたかったプログラムとは遠く離れていたことが、この虚無感に拍車をかけてしまったのかもしれない。私にとってプログラミングとは、もっとかっこいいものであったはずだ。それこそ、TVゲームや携帯ゲームはもちろん、PCではフリーゲームもやっていたし、RPGツクールで簡単にだがゲームを作ったこともあった。ゲームのどの部分でもいい、どこかに携われればいいとも考えていた時期もあった。それがプログラマーならあえて拒む理由もない。今思えば、甘すぎる意識であったのは言うまでもない。

職業訓練校時代

 どうしてこの会社に入ったのか、すぐに記憶は呼び起こされた。職業訓練校で斡旋された求人に次々と落とされ、もう選んでもいられず、とりあえずプログラミングが活かせる求人をハローワークで探して見つけたのが、この会社だった。面接は20分で終わり、採用理由は簡潔に「若かったから」で、成績証明も不要だった。高校時代は各科目5段階評価で、最終平均4.5とまずまずの成績。訓練校でも学科ごとに一つしかないクラスで1位をほぼ独占していた私にとっては少し解せない理由であったが、この「若かったから」というのが何ものにも代えがたいものであることは当時、知る由もなかった。

興味

 私は何がしたかったのだろう。そんなことを考え始めたら止まらなかった。思えば「できたらいいな」と考えていたものが、どれ程かけがえのない未来への足掛かりだったか。絵、作曲、プログラミング、動画編集、小説、どうやら私はクリエイティブなものに興味があったらしかった。成程たしかにゲームというのは理にかなっているように思える。おそらく私は、私という人間の思いを表現する技術が欲しかったのだろう。口下手で、絵心はなく、語彙力や表現力もない。私の中の「何かを好きである思い」が消化不良を起こし、精神を蝕んでいるのだ。これは早急に対処するべき問題であった。

 しかしながら、世間的には全くもって若すぎる齢とはいえ、既に成人していて知識もなければ触ったことすらない人間が、今から一つ一つ手を出していては時間がいくらあっても足りない。時間的余裕も精神的余裕もない状態では尚更不可能だろう。さらにいえば、一つのことを集中して習熟してきた経験が皆無であり、努力とは無縁の人生を送ってきた私には到底、それこそ天と地がひっくり返ってもあり得ないことであった。

 そうと決まれば、目指すことは一つしかない。会社に縛られない経済状況にするしかない。昨今、巷でよく聞くセミリタイアというヤツである。自由なライフスタイルさえ手に入れられれば、どうとでもなると現を抜かしていたのだ。それが地獄の始まりだとも知らずに。

 貯金はあった。実家を出て一人暮らし、会社も辞めて、と今思えば無謀極まりない決断だったが、それより何より一刻も早く会社と実家を出たかった。

両親

 話は一旦逸れるが、実家を出たかった理由についても触れておかないといけない。

 私は実家が嫌いだった。いつからかは明確に覚えてはいないが、それは学生の頃からだったかもしれない。私の家にはオタクという人種がいなかった。オタク、先程出た二次元的なものに限らない広義的なオタクである。要するに、両親に人一倍の能力があるわけでも、変わった趣味があるわけでもなく、当然アニメやゲームにも疎かった。それに加え、母親はただでさえ難聴なのに人の話をろくに聞こうとせず、物覚えが悪く頭も悪い。父親は難聴でもないのに人の話をろくに聞かず、物覚えが悪く頭も悪い。これはただの悪口であるが、両親共々お世辞にも賢いとは言い難かったのである。

 「自分の言葉は、とかく無意味なもの」「人間、言われて直るなら苦労はしない」というのが、そんな両親から得た世俗への評価である。それは当たり前なコミュニケーションの否定。自分の言葉の意味はどうせ通じないのだから話すことなんてない。誰かが間違えていても、注意したとて忘れるのだから言う意味がない。そんな阿呆な人間は両親以外ではそういないと分かっていても、そのどうしようのなさが自分にも刷り込まれていることに気付き、そしてそれが克服し難いものだと悟った時は血を呪った。私が何が好きで何がしたくて何を夢見ているか、きっと両親は一割も知らないだろう。私がどんなことに悩みどんなことに悲しみどんなことに腹が立つのか、私がどんな気持ちで生きているかなんて、きっと両親は微塵も知らないだろう。父も母も、お互いがお互いをどうしようもない人だと思っている。お互いがお互いの気持ちを平気で無下にする。下らなすぎることで起こる怒声、噛み合わない口論、知性の欠けた文句。私の目には、この空間が酷く醜く歪んで見えた。

 たしかに、母親はしっかり家事をしているし父親も昼は会社に勤め夜は新聞配達とよく働いていた。しかし全く尊敬できないのは、私が薄情なだけではない。両親が健在で、自身も健康に育ったことは幸福なことだと思う。しかし素直に感謝できないのは、私が恩知らずなだけではない。実家でこの両親にそれなりに良く育ててもらったとも思う。しかし愛されてこなかったと感じてしまうのは、私が我儘なだけではない。

 ただただ居心地が悪かった。家の空気がまずい、耳に入る雑音が不快、リビングから届く声が耳障り。静かに一人で落ち着いて穏やかに生きたかった。それだけだった。

一人暮らしフリーター時代

 話を戻そう。

 無事に実家を出て、会社も辞めた私は副業に勤しんでいた。正直に言おう、儲からないらしい商材に手を出していた。即ち、詐欺られていたのだろう。今から3年前である。推量なのは、大して実践せずにやめてしまったからで、最近になって評判を調べたらどうやら詐欺らしかった。今の私なら絶対に買わない商材なのは間違いない。

 結局、スムーズにセミリタイアとはいかず3ヶ月のニート期間を経て、そろそろ働かないとヤバいと思い、初めてアルバイトを始めた。そこで勤めた2年間で最も良かったことは、そのアルバイト先にいた年下の同僚と出会えたことだろう。彼を"N"と呼ぼう。一体どうして、これ程までに仲が深まったのかはよく覚えていない。今までの誰よりも馬が合ったというだけかもしれない。Cの時とは比較にならない程、楽しかった。Cの時はある程度波長を合わせる必要があったが、Nはそれが最小限で済むため非常に気が楽だったのだ。Nとは、8ヶ月前にアルバイトを辞めた後から現在も付き合いは続いている。

 Cと同じ点があるとすれば、それはやはり私よりも多くの経験を持っていて、そして人生を楽しそうに生きている点だろうか。いつか撒かれた蟠りの種は、いつの間にか芽吹き、会社員時代にすくすくと成長していたところにNとの出会い――。既に肥大化していた劣等感をさらに助長させることになっていた。

 しかし謝らないといけないのは、Nの件は私の抱いた絶望と直接的には関係ないことである。つまり、無関係ではないが話が脱線してしまっていた。

過ち

 問題なのは、今の今まで経済的安定の確立に失敗してきたことである。アルバイト時代、日雇いと派遣と食い繋いだ時代、そして断腸の思いで実家に帰ってきてしまった現在――。その間にいくつの商材を買い、その度に金をドブに捨ててきたか、買うため、暮らすためにいくら金融のお世話になったか、思い出すのも億劫である。

 「自己投資」といえば聞こえはいいだろうが、その言葉が生きるのは努力した場合のみである。仮に挫折しても、しっかり実践した末の結果であれば、次の挑戦への足掛かりになるだろう。実践すらまともにできなかった私は、文字通り金をドブに捨てたと言われても差し障りはない。

 いたずらに金を借りては捨てるを繰り返して出た結論というのが、「私は成功者になれる器ではない」ということだった。金と時間を棒に振って得た答えが、あまりにも無慈悲な現実ということに、むしろ清々しさすら覚え、自分の感覚はとっくに狂ってしまっているのだなと冷静に認識した。

不足

 成功が期待できる副業商材というのは、まず間違いなく“努力の継続”が必要になる。必要ないという商材は全て詐欺だと言ってもいい。この“努力の継続”というのが人によっては極めて困難で、自然に行える人間にそうでない人間が追いつくことは容易ではなく、現実的とはいえない。仮に同じ土俵まで上がれたとしても、追い抜くことは至難である。これが成功者と、言い方は悪いが敗北者との重大かつ決定的な差であろう。言わずもがな、私にはできなかった。

 当たり前の話ではあるが、人間、やったことがないことをそう簡単にはできるようにはならない。だから学習という機能があり、練習という手段があるのだ。そのための時間も、一応は平等に用意されている。できないことをできるようにするというのは、とてつもない時間とエネルギーが必要不可欠なのだ。

 しかしながら、この"努力の継続"ができるかが、人生を彩るにはマストなのである。副業なんてものは、ほんの一例に過ぎない。幼少期からコツコツと勉強でも趣味でも何でもいい、能動的に努力することに慣れること、そして自分に合った方法を心得ておくべきだったのだ。そこを怠ってしまった人間が、私のようになる。何かを始めようと思っても、どうやって頑張ればいいか、どうするのが自分に一番なのか、わからない。既に大人になり、思考や行動、生活パターンが固まってからでは、新たに"努力の継続"という人生の骨組を構築することは並大抵のことではなく、無論、私には無理だと即座に判決が下った。

贖罪

 私はそれなりに賢い方だと思っている。その理由は、勉強だけはあまり勉強せずともできたからである。しかし、この社会の中ではそんな能力は全く役に立たず、必要なのはいつだって"努力する姿勢"だった。この芯まで染まりきった劣等感と無力感、何もできず時が過ぎていく焦燥感は、それを持ち合わせていない私への罰なのだろう。

 他人が言ったならば、「そんな人間はいない」と諂うかもしれない。だがこれは事実であろう、私は"失敗作"である。ここまで気付けたことが、唯一の優越だろう。何の才能もない、冷めた家庭に生まれ、社会で生きるため、そして成功者になるための基本的な能力を身に付けることもなく生き、真実に気付いた時には既に八方塞がりで、ただ成す術なく心が削られていき、自分という人間が馬鹿らしくなる。人生のどこかで「死にたい」と思ったことがある人は多いだろう。でも実際に行動に移す人はほぼいない。このグズグズに崩れ落ちた心も、結局は有象無象の一つだと考えたら、死ぬ度胸すらなく仕方なく生き長らえている自分が恥ずかしく思うばかりである。

『私』が幸せになる方法

 もし、この死にぞこないが再び前を向くことがあるとしたら、それは私が自分を許せた時だろう。生まれてから今日までの愚行、己の無能、無力さを受け入れ、そして自由への渇望を捨てることである。ただそれには、現状に満足することを良しとするだけの器が必要であり、当然ながら私にはない。剰え、そういった人種というのは既に望む生き方を概ね実現しているか、現状を諦観し妥協しているかだろう。私は前者ではないし、後者は忌み嫌うものである。つまり、どうしたって受け入れることは適わないわけだ。あるいは、私を引っ張ってくれる物好きな理解者が現れることを祈るしかないが、今更そんなことを望むなど奇跡を待つに等しく、死を待つのみである。

 ここまで落ちぶれてしまった私が希うものは、先に挙げたが“穏やかな生活”である。「穏やか」というのは生活環境と、そして心身を指す。私がまだ学生だった頃からの「幸せの条件」の第一条件であった。「生活環境」とは、安定した経済的自立と、無害な人間関係である。金がなければ生活はできず、生活を脅かす存在がいては落ち落ちと人生を謳歌できないだろう。次に「身」は文字通り身体、つまり健康を維持することである。身体に異常があっては将来が不安になってしまいかねない。そして「心」、精神状態である。現在、そして未来に憂いのない心が長い人生には肝要と考えている。だが、これが最大のネックとなり今もこうして幸福を阻んでいる。本当はまだもう2段階の条件があったのだが、現状とてもその段階ではないため割愛する。

 兎にも角にも、『私』は幸せになりたかった。

さいごに

 特にこれといったオチもなく、私の話はおわりである。

 もう私の人生のネタは尽きてしまったので基本的に放置する予定だが、また何か不平を訴えに文字を綴りに来るかもしれない。

 最後まで読んでくれた寛大なあなたの幸福を願うと共に、私のような人間が一人でも多く報われることを祈ろう。

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