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斎藤道三の国盗り伝説、じつは違う? 親子二代説を徹底解説【4/20は長良川の戦いの日】後編

前回のnoteでは、斎藤道三の国盗りエピソードがじつは史実ではなかったことを示し、道三の父・長井新左衛門尉が出世を重ね、美濃国守護代の斎藤氏の重臣にまで成り上がったところまで解説しました。前回のnoteはコチラ▼

今回はその続きです。果たして史実ではどのように美濃国を手中に収めたのか、解説していきます。

息子が主家を乗っ取る!

もとは松波左近将監藤原基宗だった道三の父は、乱世において己で道を切り開き、長井新左衛門尉として斎藤氏の重臣にまで出世しました。
この出世物語は、まだ終わりではありません。それはのちに斎藤道三と呼ばれる息子に引き継がれていきます。新左衛門尉の子が史料上に登場するのは、新左衛門尉が逝去した1533(天文2)年の記述からです。

その子の名前は「長井新九郎」といいました。父親は出世のために粉骨砕身した人物でしたが、この息子が梟雄の伝説をつくっていくのです。

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新九郎はまず、この父が死んだ年に、なんと父の主君であった長井長弘を暗殺してしまいます。長井家の総領を滅ぼしたことになり、新九郎が長井家のトップに君臨することになりました。
お父さんが死んだ途端にこれとは……、いきなりの蝮ぶりですね。

そして1536(天文5)年には、守護の土岐頼武(よりたけ、別名を政頼)がいる川手城を攻め落として、守護本人を追放してしまうのです。ただし、このときは政頼の弟・頼芸(よりあき)のクーデターに加担したため、新九郎が独断で行ったわけではありません。
ただ、この功績によって、一時絶えていた土岐家の守護代・斎藤家の名跡を継ぐことを頼芸から許されました。このときから新九郎は「斎藤利政(としまさ)」を名乗りはじめ、頼芸のもとで美濃の政治の実権を握ります。

これぞ蝮! 恩ある主君を追放

当初の主君であった長井家も意のままとし、さらにその上の主家であった斎藤家をも手中に収めた利政ですが、これで満足しませんでした。
なんと欲深いことに、自ら一国の主にならんと、1542(天文11)年、主君の頼芸をも追放したのです。頼芸は、父亡き利政の主君にして、出世の道筋をつくってくれた大恩人……。なのに、利政はこの人にも弓を引いたのです。
これぞ蝮…! 圧倒的梟雄…ッ! まさに戦国下克上……ッ!

主君を追い出した利政は、美濃一国を手中に収めることに成功します。この頃から歴史上で有名な「斎藤道三」という名前を名乗りはじめます。

息子を使い捨てしようと企てる

しかし、この主君追放が道三の泣きどころになってしまいます。
追放された土岐頼武・頼芸兄弟に逆に攻められると、頼芸の血を引いていると噂される嫡子・斎藤義龍を利用して美濃の人望を集め、彼ら土岐兄弟を退けました。(斎藤義龍▼)

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しかしその後、義龍を廃嫡して弟の喜平次を国主にしようと企てると、義龍と対立してしまい形勢が逆転。美濃国ほとんどの衆が土岐氏の血を引くという噂の義龍に馳せ参じ、道三の言うことは誰も聞かなくなってしまったのです。そして息子と長良川で対陣し、前編の冒頭でご紹介した戦死へと至ります。

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国を乗っ盗り、その血縁と噂される息子を使い捨てようとまで企んだ蝮……。その最期は息子や土岐氏を想う美濃衆によって幕が閉じられました。この男らしい、皮肉な散り際だったと言えるでしょう。まさに因果応報…ッ! 圧倒的最期……ッ!

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油売りから一代で戦国大名に成り上がったという通説はウソだったとしても、梟雄ぶりだけは史実だったと言えるでしょう。子の道三のほうだけですが…。


参考資料:

『日本史雑学人物伝 大貧乏大逆転』爼倶楽部(毎日新聞社)
『斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下剋上』横山住雄(戎光祥出版)
『完全制覇 戦国時代』河合敦(立風書房)

Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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