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高橋是清は昔、奴隷として売られたことがある!?【2/26は二・二六事件の日】

本日2月26日は、日本近代史上で有名なあの二・二六事件が起きた日です。

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1936年2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが約1500人の下士官兵を率いてクーデターを起こしました。彼らは首相官邸や警視庁、陸軍省などを占拠し、陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えましたが実らず、「叛乱軍」として鎮圧されました。

二・二六事件で生涯を閉じた高橋是清

このとき、クーデターの犠牲になった一人に、大蔵大臣の高橋是清がいます。
是清は日銀の副総裁時代、日露戦争に際して高い交渉能力で外債募集に成功した類まれなる優秀な人物です。またその後は日銀総裁や大蔵大臣として日本経済の礎を築き、昭和恐慌の不況にあえぐ日本経済の回復にも大きな力を発揮したことで知られています。

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今回は、この高橋是清に関する意外な過去をご紹介します。

名宰相に奴隷の過去!?

是清が日露戦争に際して活躍できたのは、雄弁な英語能力があったからでした。それもそのはず、彼は若いときにアメリカに留学し、英語の読み書きを習得して帰ってきていたのです。
しかし、このアメリカ時代の是清には驚くべき逸話があります。

なんと彼は、奴隷として売られていたというのです。のちの日銀総裁や大臣になった人物が奴隷だったとは…!!
いったいなぜそんなことになったのか、順を追ってみていきましょう。

13歳で渡米

1854年、横浜にペリーが来航した年に誕生した是清は、生まれてすぐに仙台藩士の高橋是忠に預けられて育てられていました。
当時、仙台藩では外国の物事を学ばせるために若い武士を積極的に海外留学へ行かせていました。そこで選ばれたのが、当時11歳だった是清と、鈴木六之助の二人でした。彼らは横浜のヘボン熟で2年間も英語を学んだのち、アメリカ人のヴァンリードについていって留学することになりました。

老夫婦にこき使われる

アメリカへ渡った二人は、サンフランシスコに住むヴァンリードの両親の家にホームステイすることになりました。
この老夫婦、最初のうちは人が好さそうに見えましたが、時間が経つにつれ本性を顕わにしていきます。
彼らは2人に掃除や家の見張り番などをさせました。また当初は普通だった食事もだんだんと粗末なものに変わっていき、目に見えて待遇が悪くなっていきます。さらに留学が目的だったはずが、学校にも通わせてもらえません。

これに2人は当然、腹を立てます。
「勉学が目的だったのに、こんな小間使いのようなことをしに来たわけではない!」
そうした怒りを覚えた是清は、ヴァンリード夫妻から命じられた雑用をやらなくなってしまいました。

オークランドへ引越し

老夫婦の手伝いをまったくしなくなった是清。これにヴァンリード夫人は見限ってしまいます。
そして是清にこう提案したのです。「オークランドにブラウンさんという知り合いのお金持ちが住んでいるの。ブラウンさん家に住んでみてはいかが?」と。
こうして是清はヴァンリード家からブラウン家に移動することになりました。

オークランドに着いてブラウン家を訪ねてみると、そこにはすでにアイルランド人と中国人の召使がいました。召使がいるなら、ヴァンリード家にいた頃のようにこき使われることはないだろうと安心します。
しかし、それは甘い考えだったのです。

謎の契約書にサイン

ブラウン家にホームステイ先を移すにあたり、是清は一通の書類にサインをさせられました。彼は横浜で勉強したとはいえ、まだ14歳の少年。契約書の内容なんてわかりません。
しかし、このときにヴァンリード夫人が「ブラウン家に住み込めば、自由に勉強ができると書いてあるわ」という説明を信じてサインを入れてしまいます。

このサインが良くありませんでした。
じつはこの書類、自分を身売りすることに同意すると書かれていたのです。つまり是清は、自ら奴隷契約にサインをしてしまったのでした。


奴隷契約だと気づく

奴隷契約を結んだと気づかない是清は、ブラウン家で勉学に励みながら、農場の手伝いをするようになりました。牧童として働いたり、ブドウ園も手伝いました。勉強しにきたのに働きづめだったわけですが、このときはまだキツめの勉強だと思っていたようです。

しかし、同居している中国人と喧嘩して出ていこうとしたとき、彼は自分が奴隷契約を結ばされていたことを初めて知るのです。
自分は留学生ではなく奴隷。この現実に是清は愕然としてしまいます。あの契約書がある限り、ブラウン家から出ていくことはできず、奴隷労働をし続けなければならないのです。

必死の交渉で解放

この現実を打開するため、是清は当時の徳川幕府からサンフランシスコ名誉領事を嘱託されていたブルークスを訪ね、契約破棄の調停を依頼しました。自分の身分を自由にするためです。それはもう必死に交渉しました。

そしてブルークスの計らいによって、ブラウン家がヴァンリード家に支払った50ドルを支払うことで身売りの契約が破棄されることになりました。是清は、自らの強い意志と労働しているうちに学んでいた英語能力によって、この困難な交渉を乗り切ったのです。
彼がのちに日露戦争の際、英語を駆使して各国から外債を募集し、これを見事成功させたのも、このときに培った交渉能力があってこそだったのです。

その後、倒幕がアメリカに伝わると、是清は帰国を決意。1868年12月には横浜港に到着しました。

ちなみに、このまま真面目に政治家を志したわけではなく、帰国後は書生や教官助手をしていたものの、酒好きが祟って放蕩三昧。挙句、無職になっています。そしてのちに活躍する日銀に就職したのは、なんと38歳のときでした。

アメリカでは英語能力もですが、労働者然とした遊び方も覚えて帰ってきていたようですね。


参考資料:

『高橋是清伝』高橋是清口述、上塚司筆、矢島裕紀彦訳(小学館)
『高橋是清 日本のケインズ その生涯と思想』リチャード・J・スメサースト著、鎮目雅人ほか訳(東洋経済新報社)

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