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トンネル掘削でお金が… 大阪の私鉄が行った、給料支払いための驚きの金策とは?【4/18は生駒トンネル開通の日】


今週はアメリカっぽいネタばかりが続いていたので、今日は日本のローカルな話題に戻してみたいと思います。

本日、4月18日は生駒トンネル開通の日です。大阪市の上本町駅から出ている近鉄奈良線のトンネルで、1914(大正3)年のこの日に開通しました。のちの1964(昭和39)年に隣に新生駒トンネルが開通し、旧トンネルの一部を利用する形で近鉄けいはんな線が走っています。(▼近鉄けいはんな線)

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本日はこの生駒トンネル開通をめぐる、近鉄の歴史をご紹介します。(鉄道ネタが最近多いかな?)

近鉄のはじまり・大阪電気軌道

近畿日本鉄道は、大阪・京都・奈良・名古屋を結ぶ路線の総延長が500kmを超え、グループ傘下にホテルや百貨店、旅行会社などを有する日本最大の私鉄です。(▼近鉄の全路線網)

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天王寺にある、あべのハルカスは近鉄のシンボルとして有名ですね。過去には野球チーム・近鉄バファローズ(現・オリックスバファローズ)も所有していました。

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この近鉄は、大阪電気軌道(以下、大軌)という会社が前身です(厳密には設立当初は奈良軌道株式会社)。
この大軌は1910(明治43)年、大阪の代議士や沿線の地主が集まり、大阪と奈良を短時間で結ぼう! という目的で設立されました。(▼大軌の社章)

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当時、大阪~奈良間には、すでに関西鉄道の関西本線(現・JR関西本線)と片町線(現・JR片町線)の二線が開通していましたが、どちらも蒸気機関車であり遅く、また生駒山を迂回するルートで遠回りだったために乗客は移動に時間がかかっていました。当時では天王寺~奈良間で75分もかかっていたのです。(▼生駒山 遊園地もあるヨ!)

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ここで、遠回りせず、スピードも速い電車による路線が新しくできれば、乗車時間が短く便利になり、関西本線からたくさんの乗客がこちらに流れてくるはず……。そう目論んで、大軌の経営陣は、生駒山を迂回せずにトンネルで貫くルートを計画しました。これが冒頭でご紹介した生駒トンネルです。

難航を極めた工事

こうして始まった大軌の工事ですが、生駒山にトンネルを掘るのは難航を極めました。
掘削を始めてみると、湧き水が出てきたり、想定外の地質の変化に出くわしたりといったトラブルが続出。さらに事故が頻発して犠牲者も出ました。当初、建設費として570万円を想定していましたが、予算はどんどん膨らみ、最終的には820万円にまで達したほどです。

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この難工事にはなんと2年10ヶ月もかかりました。そして1914年の今日、生駒トンネルは完工となったのです。その長さは全長3388m。当時で言えば、国鉄中央本線の笹子トンネルの次に長い鉄道トンネルでした。
日本ナンバー2のトンネルを、市井の人々の力を結集した一私鉄がやり遂げたのですね。

トンネル掘削でお金がつきた…!

生駒トンネルが開通したのちの4月30日、ようやく大軌の上本町~奈良間の列車が走り出しました。
最初から関西本線の2路線をライバルに据えていたので、運賃も、関西本線の三等賃金・42銭に対し、25銭と安く設定しました。また運転時間も、関西本線の75分を大幅に切る50分に短縮できました。
これほど便利になったのだから、多くの乗客が来るはず…。多くの人に乗ってもらえば、その切符代で生駒トンネル掘削にかかった莫大な工費も返済できるはず…。大軌の経営陣はそう踏んでいたのですが……。

しかし、彼らの思惑は外れてしまいました。
じつは当時、この沿線にはあまり住宅がありませんでした。乗客のほとんどは、大阪から奈良へ観光に行く人ばかりでした。そのため、雨の日や観光のオフシーズンになると乗客は激減。期待していたほど乗客数は伸びなかったのです。

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乗る人が少なかったため、大軌は当初期待していた収入を大幅に下回っていました。すると工費の支払い分が足りなくなってしまいます。
世間からは、莫大な借金を背負った会社と見なされたため、発電所で使う石炭の調達から、切符の印刷まで、他社はどこも後払い精算では引き受けてくれませんでした。そのため、その日ごとに現金払いをして、納入してもらわなければなりません。大軌の職員は毎日、運賃箱の小銭を根こそぎ回収して、それらの支払いに対応するような苦しい日々が続きました。

会社にとっては地獄の給料日

こんな苦しい経営のなか、会社としてもっとも困窮する日が、社員の給料日です。頑張って働いてくれた職員に給料を支払うためにも、各駅の運賃箱の小銭を回収しなければならず、ようやく給料が支給されるのはいつも集計が終わった深夜でした。

さらに運賃をかき集めても足りないときもありました。そんなときは生駒山にある生駒聖天寶山寺(ほうざんじ)に、回数券を大量に買ってもらい、なんとか社員の給料を確保することもあったのだとか。
それでもどうしても足りない! というときには寶山寺に頼みこんで、なんと賽銭箱に納められたお賽銭を貸してもらったという逸話も残っています。
いまの大企業ぶりからは考えられない経営難ですね。

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こうした苦境に立たされた大軌でしたが、翌1915(大正4)年になると、株主や経営陣から協議委員を選出して会社更生に乗り出し、250万円分の優先株5万株と300万円の社債を発行し、経営状況を好転させることになんとか成功します。さらに翌年には100万円の減資を行なって、建設費83万円を返済。生駒トンネルの工事で背負った莫大な債務の整理を完了させたのでした。
そして、その後は第一次大戦による特需景気によって会社の業績が上昇し、大軌は次々に路線網を広げ、日本最大の私鉄・近鉄となっていきます。

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日本最大の私鉄でも苦節の時期があったとは、日々を耐え抜く大切さを教えてくれるようなエピソードですね。

参考資料:

『近代日本と地域交通 伊勢電と大軌系(近鉄)資本の動向』武知京三(臨川書店)
『大阪電気軌道株式会社三十年史』大阪電気鉄道株式会社編(日本経済評論社)
『50年のあゆみ』近畿日本鉄道株式会社編(近畿日本鉄道株式会社)
『鉄道廃線跡を歩く Ⅲ』宮脇俊三編著(JTB)
『近鉄奈良線 街と駅の1世紀』藤原浩(彩流社)
『旧生駒トンネルと朝鮮人労働者』田中寛治、川瀬俊治ほか(国際印刷出版研究所出版部)


Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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