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制作日誌2意味づけについて考える、トランス状態の文章など

言語化出来ないものを、言語化する練習をしている。
何か良いなとか、言葉に出来ない とかから逃げる。
言語化するということは、人の理性の範疇に置く、つまるところ、意味を与えることになる。

言語の世界が全てであるという価値観もあり、
言語道断、言語ではたどり着けない世界もあるよといったアプローチもあり、神秘体験・非言語の世界で得たことを、言語にしなきゃいけないよといったアプローチもあり。

井筒俊彦氏の意味文節理論、大きな何かに対して、名前を与え
存在を分節し、意味を与えていくことで、執着していく。
その執着が人を悩ませる。

井筒俊彦氏の本にもあったが、
各個別の言語化・意味づけを捨て、根源を掴む、
全てはひとつの土であり、我々が見ているのは
その土で作った様々な土器である。
弥生土器、縄文土器と我々は名づけるが、
土器ではなく、土自体を見る。
新たな世界線を見つけることが出来る
そんな世界の見方もあるなと最近は思う。

ストレス等は、事象に自分で意味づけしすぎ、
自分で意味に執着しすぎといった話もありますよね。

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真理をつかむ
その為には言語の意味文節は障害となる。
言語で物事を分節しない。
(デリダはそのアプローチで、脱構築を行った)
分節しない世界は一であり、全であり、0であり、無である。
表現は各宗教により異なる。

真理を見て、得られる功利性は各宗教の教えに基づくのか
何を得られるのか

神秘体験をした際のすばらしさを
言語にもってかえってくる意義は何か
(それは宗教という大きな物語を、再強化する意味なのか)
詩でも妄言でも、何か真理をつかむために、その近くに行くために、言語を並べる。
そこに確認の言語的自由さが生まれるのだろう。
そこまではわかる。

だが、言語のルールにのっとっていない、言語表現は
すばらしさを同じ言語世界に住む普通の人類に伝えることが出来るのか
トランス状態の文章は何を意味するのか。

普遍性を押し広げたい。
良さ。や、真理との遭遇、宗教的救いは
言語の世界で経験出来る、答えが見つかるものだろうか。
言語で表記しきれる世界が、つかみ取れる良さの全てなのか

①その場合、言語の限界性を突き詰める必要がある。
言語で突き詰めた事物から、実用主義の世界に落とし込む必要がある。
言語表現で伝承されたこと以上の存在を考えない。

②言語で表現しきれない神秘性も確かにある。が、
それは言語ルールにのっとっていないかもしれない表現含めて、
何かしらの形で、人間が共有できる世界に持ってくることが出来る。
神秘性の輪郭を追うことが精いっぱいだとしても、何かの形で残滓を追える。

③言語化できない、抽象化された人間の感覚、と
呼ばれるものが、良さや宗教的救いの答えであり
我々はその本質をつかめない中で
後付けのように言語の奴隷として、
残された僅か限りない言語を使うしかないのか。
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