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『朗読』メルヘン・ながれのうた

私の祖母は、父方も母方も読書が好きであった。


母方の祖母から貰った本の中に、それはあった。


木ノ下夕爾児童詩集 ひばりのす


渡された当時、私は物語に夢中であった。
詩はあまり馴染みがなかった。
それでも読んで『詩とはこんなものでいいのか』と思ったことを覚えている。
子供の私は読んだ詩の素晴らしさに気がついていなかった。
大変失礼な話だが、自分でも書けるぞ、これくらいと、何処かで思っていた気がする。いや、ほんとに失礼だな。

今ならわかる。
どれだけ、その言葉達が繊細で純朴で大切に扱われたか。
ありありと浮かぶ、見たこともない田舎の風景。
どこか切なく、そして温かな心達。
それが短く、わかりやすい言葉にされている。

けして大人に染まることのない、懐かしい記憶の向こうに彼はいたのだろうか。

私が読んだ『メルヘン・ながれのうた』は川の様子が描かれたものである。
川は流れ、人々はその近くで生活をし、川は流れ、人々はその近くで生活を……そうやって、私達は知らず知らずのうちに川のように流れ、何時しか海に辿り着くのだろう。

木ノ下夕爾はきっと、家の近くの川のおしゃべりを聴いていたのだと、私は詩を読みながら思う。
そして、自身も川のようだったのだろうと思う。

作者を語ることは難しい。
私は評論家でもないし、彼の知り合いでもない。
たった一冊、詩集を所以しているだけの者である。

だから、私の感じた事しかかけないけれど
私は『メルヘン・ながれのうた』が……好きというより、愛おしい。
まるでずっと、知っていた事のように、それは馴染み、私の中に流れている。

多くの人に、知ってほしいと思うのだ。
この詩を。
そして感覚を研ぎ澄ませて感じ取ってほしいのだ。

私の拙い朗読で伝わるとも思えなかったが、聴いて、彼の言葉を読みたいと思う人もいるかもしれないし、私より伝わる朗読ができる人が現れるかもしれない。

そう思い、読ませていただいた。
ずっと朗読したかった。


人生は川のようである。
そして、大筋では1度きりの流れだが、小さな繰り返しがあるものである。
海に到着しても、また雨になり山に戻り、岩の間をじっくり通って川になることも、人生のうちではあるだろう。

そして、流れ集まる、その時に、水車小屋を一緒に歌い回す仲間と出会える事を願う。 

私は今、まさに、ここを流れている。

仲間と一緒に歌い回す水車の音を愛おしく思いながら。汚れつつも海を目指し。

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