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『蝉廻り』‐003


帰路の電車内から まだ明るい空の元に放たれる看板のネオン色。台無しだ…雨雲が去った後の空は何とも言えない混合色を出しながら夏の終わりを醸し出しているというのに。次々に目の前に現れるネオン灯が、現れたその瞬間に僕の後ろへと流れ去ってゆく。各駅電車も案外早いのかな。それでも家に一刻も早くたどり着きたいと思う僕の気持には追い付いてはいない。 僕の頭の中では、今朝の蝉の行く末論が次々と語られていた。

 

 

Play :(post malone ; Candy Paint )イメージ曲


電車から足を踏み出し降り立ったホーム。僕は動きが取れなくなった。

後ろで電車のドアがプシューと音を立てながら閉まる。鞄を片手に足を踏み出すことも出来ぬまま、ただ目の前に広がるその光景に、僕は 一瞬で飲み込まれた。どこまでも横に広がるホームの向こうに繰り広げられた空の世界…雲の合間から突きさす光が、地面を打つと同時にはじき散らされたビー玉の様に あちこちに色を放つ。僕の時間が止まった。”すげー” 不意打ちで口から洩れた。毎日狂うように研究を続けるこの空は、一度たりとも同じ姿を現すことはない。空に浮かぶ物から、僕を含む 空下で繰り広げられる全ての物が、この一瞬の形を作り上げて二度と同じ景色を生み出すことはない。雲を流すその風が、僕の顔を撫でて流れてゆく。今このホームから空へ飛べ立てる気がした…僕が行きつける場所に この空なら連れて行ってくれる様な。この町を覆う、今この瞬間のこの空に、僕の在るべき場所があるような気がした。

   

 (end music)

   

 

突風を巻き起こしながら、特急電車が目の前を切って走り過ぎる。流れ進むその電車の窓の合間から零れ落ちてくる空。帰路に就く人達に遮られてもなお、僕の見つめる先は変わることがなかった。あっという間だった。気づいた時には空は既に闇を呼び込み始めていた。





 

蝉はいなくなっていた。。。

 

駅を出た僕の足は何故かいつもより早く、気づいた頃には家までの道を思いっきり駆けてい た。息つぎを何処でするのか分からなくなる程に夢中で走りぬいた路地から、家の前の樫の木までの記憶は全くない。ただ、やっと辿り着いた木の幹に あの蝉はもうしがみ付いてはいない事実だけが目の前に突き出された。電車の中で駆け巡ったシナリオを一つ一つ潰していく 。木の上をどの方向から見ても、今朝見た抜け殻達しか目に飛び込んで来ない。庭一面をくまなく探す。力尽きて落ちてもいなければ、鳥に食われた残骸も見当たらない。ここにもいない、こ っちにもいない。”何かさがしものですか?” ぱっと声をするほうに頭を向くと一人の若い女性が立っていた。ふわふわした茶色い長い毛に覆われたコロっとした犬を引いたピンクの手綱を手に、彼女は疑問ががかった笑顔でにこっと僕に問いかけた。鞄を手に持ったまま、息を切らしながら前かがみで必死に地面をあちこち見回る自分の滑稽な姿が 彼女の眼を通して見えてしまった。”あっ…、今朝ちょっと庭に落とし物しちゃったみたいで…” とっさに思い付いたのがこんな一般的な回答かい。今この瞬間の光景を漫画にしたら、僕の顔からは長く引き伸ばされた汗が たらーーっという文字付で描かれているに違いない。”明日の朝にでも もう一度 見てみようかなー、なんて”。。。なんで言い訳じみたこと言っているのだろうか僕は。その女性はくすくすと笑いながら ”見つかるといいですね、落とし物”。そう言ってぺこりとお辞儀をして、日が沈んだ方向へ足を運んで行った。飛んで行けたのか…あいつ。”飛んでいけたといいけどな。” もう一度木の前に立って触れてみる。右手にはごつごつとした樹皮の感触と苔の湿っぽ さだけがあって、あの蝉のくすぐったさはもう僕の手には残ってはいなかった。 頭を掻きながら玄関に向かう。あんな言葉しかとっさに出てこないから女っ気がないんだよ僕は。蝉の将来に一筋の希望が灯った安堵感と、自分のやるせなさでいっぱいになった、そんな夕暮れだった。




 

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