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誰だって甘えたい

 たまたま時間があったので、最寄りの大きな駅のたくさん電車が見える展望デッキの一角でパソコンを広げて仕事をしていた。土曜日ということもあってか、小さい子どもの手を引いた家族や親子が電車を眺めたり、そこに設置されている電車の模型などを眺めている。この人たち、みんな電車が好きなのかな…否、わざわざ土曜日に駅で電車の模型観るより家で寝ていたい大人なんていっぱいいると思う。敢えてよそ行きの服を来てわざわざ小さな子連れで電車で移動してこの駅の展望デッキに来ているのは、ズバリその小さき我が子を喜ばせるため。それだけの理由に違いない。私も経験がある。
 もう少し言うと、家にじっとしていたとて休める環境はそこにはない。寝そべっていようものなら、早朝から自分の周りに絵本や積み木が積み上げられ、コンサートが始まり、相手をしないと自分の大事なものがいつのまにかおもちゃの様に扱われていて慌てる…と、全く心が休まらない。ならば、外に出ている方がまだ気分転換くらいにはなるだろう、とよそ行きの服を来てわざわざ外に出かけるのだ。

 3人の我が子が全員成人したというのに、私は未だに一人で運転していても救急車や消防車を見かけると「ほら!」と後部座席に声をかけていることがある。子どもたちの好きなもの、興味を示すもの、見せたいものにかなり敏感になり、そのアンテナをビンビンに立てていた時期のことを思い出してホロリとする。今は一人でどこにだって行ける。あの時の私が「たまには欲しい」と思っていた一人の時間は今ここに。その代わり「うぁ〜きゅうきゅうしゃ〜!はやいね〜!」という可愛い声はもう聞こえてこない。緊急車両への興味なんて全くなかったのに、あの時は緊急車両も新幹線も飛行機も信号も、ダイヤみたいに輝いていた、あのときめきはもう感じられない。

 子育て中の人を見ていると、本当によくやっているなぁ、と思う。ワンオペなんてもっての外だけど、何人でやったとしても子育ては本当にいろいろなエネルギーを使う、ものすごいこと。でも、子どもが好きな新幹線を見るためだけに駅に行くこと、出来るだけたくさんの電車を見せるために線路脇で我が子をおんぶしてずっと立ち尽くすこと、見た感じはとてつもなく大変でしんどそうではあるけれど、そこで得たほのかなぬくもりみたいなものは、子どもだけでなく自分自身の心の中にも灯り続ける。

 子どもがいると、子ども中心の毎日になる。私はそれを受け入れた。それまで好きな時に旅に出て、好きな様に仕事を変えて自由に生きていた自分にとってどんなに苦痛だったかと想像するけれど、意外と私はそれを楽しめた。それはまた別のタイプの旅みたいな感じ。

 子ども中心でいると時々「そんなに甘やかして」と言う人もいる様だが、子どもにとって甘える場所は必要不可欠。どのくらい十分甘えてきたかによって、大人になってからが違うというのは私の持論。あちこちでいろいろな仕事をしてきて、人を観察するのが趣味みたいな私にとって、関わってきた大人の方に「甘え足りなさ」を感じることがある。この人は、十分甘えることをせずに大人になったな、と感じる時その人は常に不安定の中にいる。人に厳しく、自分は…大人になっても尚、甘えられる場所を探している。無論、自分が人の甘えを受け入れる準備は出来ていない。

 「甘やかしたら、ろくな大人にならない」的な言葉で大人が自分の甘え足りなさを最優先させるから、また不完全に甘えた人が人に厳しくなっていく。自分だって頑張ってるんだから、甘えちゃダメだ。その不安定さで職場や家庭を息苦しくする。
 子どもを頑張らせることに反対はしない。でも、バランスは大切。その子がどんな自分も受け入れられると心から甘えて安心出来る場は必要不可欠。

 学校でよく聞く笑い話に「うちの子は塾で夜遅くまで頑張っているんだから、学校では寝かせてやってください」っていう親の話があって、ある意味都市伝説化してるけれど。これが「甘やかしている」の本質ではない、と理解するくらいは私たちも正気でいたいと思う。これは、その上でのお話だ。

 誰だって甘えたい。そして学力や努力、根性よりも必要なのは「安心出来る場所」なんだって思う。

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