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言葉の裏切り

 朝井リョウさんのエッセイにあった言葉「本は、言葉とともに、視点を与えてくれる。」が沁みた。本が好きな理由を考えたことはなかったけど、私は「言葉」が好きで自分から見える景色とは違うアングルから見る景色も大好物。同じものを見るのに全然違う感想を持つ人の言葉は私をワクワクさせる。本は、その視点が言葉に乗って心地よく心に届く。素敵な言葉やその言葉一つから広がる世界を感じた時、ゾクゾクっとする。その気持ちがたまらなくて、また本を開く。

 でも、言葉による裏切りで気分がとても悪くなることも多々ある。
それは悲しいけど、社会では「立派な人」として通用している人から出てくることが多い。あるシンポジウムでとある中学校の生徒が発した「かつて行われていた様な平和教育の時間が今減っているのでは」という指摘に答えた教育長の言葉は「今は修学旅行で長崎や広島、鹿児島に行って資料館や平和公園を訪れること、またそれに向けて学ぶことが平和教育になっています」だった。確かに正解に聞こえる。けれど。私が子どもの頃は長崎への修学旅行で平和公園、原爆資料館に行って被爆体験者の話も聞いた。今と同じで千羽鶴を折ったりしていた。そしてその上、夏休みに数日「平和授業」のための日や戦争関連の映画やドキュメンタリー映像の上映などもあった。
 生徒の「減った」という言葉を、「他で補っているから大丈夫」という言葉で返したの教育庁の言葉は、いかにも正しく美しくまとまっている様に見えて、「減った」ことに対する言及は一切ない。確かに減っているのに。
 その生徒の質問の「減った」の背景は今の学校の忙しさや、闇雲に増やされていく新たな教育による先生方の忙しさ。子どもたちが「味わい感じる」時間が減っているということも含めての質問だったにも関わらず、その質問の中心から微妙にポイントをずらして、最もらしい言葉で公式にとぼけて見せるその様子が悲しかった。そこに「最もらしく」言葉が利用されていることが悲しいのだ。

 残念ながら、政府と同じくらい学校という現場では同じ様な言葉の取り扱い方が日々行われている。子どもたちに言葉の味わいを伝える場としては誠に頼りなく残念な感じしかしないけれど。私も薄く学校に関わり続けているとその言葉に慣れてしまう自分がいる。なんなら自分も曖昧で聞こえの良い言葉を使って、微妙なことをうまく切り抜けようとすることだってある。でもその度に自分から出てきたその言葉を見て嫌になる。
 「なぜダメなんですか」とか「それはどういう理由で行う指導ですか」と私が度々投げかける疑問に、先生方や管理職の方々から嘘や誤魔化しや昔から使い古されてきた定型文が現れたら「これに違和感を感じなくなる前にここを離れなきゃ」と強く思う。

 私にとって言葉は自分を誤魔化すためのものであって欲しくない。自分が伝えたいことを自分の心にあるイメージのまま届けるためのものであるべきだと思っている。会話は論点をずらして戦うものではなく、ともに考えるもの。私にとっては。

 だから。本が好き。言葉が好き。たどたどしくても、綺麗じゃなくても、言葉をきちんと使う人が好き。新聞やテレビ、社会のあちこちで見かける何も感じないただの文字の羅列、美しく整えられた姿に見える嘘や圧力からは距離を置いて生きるのが、私にとっての最高の贅沢で幸せなのだ。


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