これからの教育(私の仮説と確信)
私の職業は英語講師だけれど、英語教育と同じくらい研究し続けているのは子どもを取り巻く環境。子育て。教育。
最近風呂場で娘に大発表した私の仮説は、「勉強が出来ない子どもはいない」というもの。誤解を恐れず言うならば、子どもには、否、人には"学びたい欲"がある。学ばなければいけない、のではなく「学びたい」欲。
どうやって食べ物を確保しようか、どうやって食べ物を腐らせずにずっと保存しようか…から始まって、より生き残りやすく知恵を絞り続けてきた歴史を振り返ってみても「考えること」「学ぶこと」は与えられた、または徐々に高まった力であり欲であると思う。
子どもたちを見ていても、ただじっと土を眺め蟻の行列を不思議そうに見つめては、いろいろ試したり考えたりしている様子や、電車、信号、動物、天体…いろいろなものの仕組みを興味深く見守る様子などは、誰に言われたものでもなく子どもが本能的にしていることだと確信する。食べ物をもっと美味しく食べるには、これとこれを入れたらどんな味になるんだろうか…私の息子は公園でコーラにメントスを入れて噴出させ、学校に苦情が入った。
ではなぜ勉強が苦手な子とそうでない子に分かれてしまうのか。それは学校の進度や方法が合う子が一般的に学校の求める結果を出しやすい、というだけの事実。いわゆる「勉強が出来ない」と言われる子たちは、学校の進度や方法が合わないのだ。それだけだ。
でも学校ではそれが点数や形になって表れ、更に周りの子どもや大人たちから「〜点しか取れなかったから、君は〜が苦手なんだね」と言い聞かせられ、思い込まされる。立派な暗示だ。ただそれだけのこと。
得意不得意はあっても、ほぼみんなが同じ種を持っている。でもその過程でその価値が振り分けられてしまうのだ。そう考えると子どもを取り巻く環境の罪深さを思う。自分も一人の大人としてその罪をいつも深く深く捉えているので、私は絶対に子どもを成績や目に見える結果で見ない様にしている。
そういう場所が一つでもあれば、そういう人が一人でもいれば、子どもたちに少しだけ希望が生まれると信じているから。
その風呂場での大発表の後、娘が淡々と言い放った言葉が心に突き刺さって抜けない。
「評価が学びをダメにしてるんだよ」
本当にそうだ。娘は子どもと大人の間。友達と常々そんな話をしていると言う。一人で気付けないこともあるから、学校で学びの種やヒントを少しだけくれたらいいんだ、と。わざわざそれを評価するからおかしなことになるのだ、と。
評価。
本当に罪深い大人の仕業。
今の子どもたちは昔私たちが気付けずにここまで引きずってきてしまった悪習慣の罪深さに、気付いている。頼もしい、と感心すると共に私たちに課せられたこの「評価」や「人を自分たちの都合の良い形で分ける」という方法を止める責任を再認識。
人が豊かに暮らせるには、教育は必要不可欠。
そして、その教育は「人を分ける」「人を苦しめる」ものであってはいけない。人に希望をもたらすものでないといけないのだ。
こうして見るとこんな当たり前のことに気付かなかった自分を情けなく思うが、更に問題なのは「評価が素晴らしい」と思っていなくても「評価せざるを得ない」人たち。そしてそれを強要する教育。子どもたちはもう新たな教育の必要性を感じている。
さぁ、大人は?
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