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「どうして?」と向き合う

 子どもたちと日々語らっていたら、「どうして?」と聞かれることが増えてくる。実はこれが私の目的。子どもたちはまだ「どうして?」をたくさん持っているはず。
 私自身、もう50年近く生きているけれど、まだまだ「どうして?」が止まらない。それも仲間から「ピーターパン」と呼ばれる由縁かも知れないが。大人になるとその「どうして」を発するのが難しくなる。それは、大人になるにつれてその「どうして?」に向き合いにくくなるからだ。
 今日は私自身が自分の子どもの部分で感じたことを書き綴っていこう。

とにかく従え

 なぜか大人になるにつれて人は「ツベコベわずに(従え)」という雰囲気を醸し出す。どこから好奇心と疑問いっぱいの子ども時代で、どこからがとにかく従えと言う大人時代になるのか、その境目はハッキリとは言えないがとにかくそうなる。これを読んでいる多くの方が、「なんで?」と思いながら従っているルールや言いつけを知っているはずだ。
 私自身、子どもの頃から「なぜ?」が多い子どもだった。私は昔も今も、生まれつき納得出来ないと前に進めないタイプなのだ。それが「大人になりきれていない」と言われるのであれば素直に認める。そもそも自分の行
 動を自分以外の意志で決めるということこそ、不自然だと思うのだが。それがここで言う「大人」なのであれば、仕方ない。でもそんな大人たちが作ってきた社会が今素晴らしいものであるか、は見ての通りである。
 
 ではいつ頃が子どもと大人の境目なのか、私なりにじっくりと考えてみるとしよう。

学校教育

 私自身、ストレスが溜まりがちな子ども時代を過ごした。日々ストレスを感じてイライラしていた、というよりは気がついたらストレスが溜まっていたという感じ。今思えば「感受性の強さ」と「違和感への弱さ」だった(いわゆる強度のHSP)とハッキリ理解は出来るのだが、当時は日々の生活の中で自分の身の回りの人間関係、社会で起きていることに過度に心を震わせ、学校生活では納得がいかないルールや叱責の中で少しずつストレスを溜め続けていたのだと思う。
 それなりに子ども時代は楽しかった。その中のしんどさは、あまりにも日常の中に散りばめられ過ぎていたので、しんどさも含めてあれが子ども時代なのだと今は納得している。でも皮肉ではあるが今言えるのは、そのストレスの中から生まれてきた善いものに今の私が支えられている、ということだ。あの時一緒に流されてしまわなかったことが、今の私の仕事に大きく影響していて、それが私を唯一無二にしている。

 小学校、中学校と上がるにつれて私の中の「違和感」の部分が膨らみ続けた。日々疑問が出てくるのだが、それを尋ねる人もいない。子どもの頃の「どうして?」は可愛いものだが、だんだん大人たちはその疑問に答えるのが面倒になってきて、最終的には人を束ねるために「とにかく聞け」となる。そしてそれでも「どうして?」となると、逆らうものに未来はない、と脅迫まがいの言葉でその違和感を封じ込める。
 この受験こそ全ての社会に於いて、「受験に影響する」は最高に使える便利な魔法の呪文。それを言われ続けて、学校生活の中で私たちは異論を唱える意思を失っていく。違和感を唱えていた友人たちも日々減っていなくなっていく。

孤高のピーターパン、母になる

 みんなが違和感よりも「こうしておいた方が身のため」と思い込んで日々を過ごす中、私は違和感の中で立ち止まり確実に周りの流れから置いていかれた。こうして「大人」らしくない大人の出来上がり、だ。
 大学では早くに卒業に必要な単位を取り一応教員免許も取得する過程を終え、卒業前は周りが就職活動をしている中、その時間でせっせとアルバイトをしてお金を貯めて海外へ飛んだ。一年間海外に暮らし、その後も友達のつてで仕事をしたりフリーターをしたりしながらバックパッカーとして海外を放浪した。誰も答えてくれない違和感から解放された後は、「しなければいけないこと」よりも「したいこと」に重点を置いて生きた。
 その延長線上で結婚をし、子どもを産んだ。

 子どもと過ごす日々の中、子どもたちが出してくる「どうして?」に答えるのが本当に楽しかった。自分と同じ感覚の人がここにいる、と嬉しくなった。そしていちいち感心した。大人がもう疑問に思うことすら辞めてしまった様なことを「どうして?」と不思議そうに聞いてくる姿に、感動した。
ちゃんと答えられることなんてほとんどなかったけど、私はその「疑問に思う」こと自体をただただ賞賛した。そうしておいた方が教育上良い、なんてことは全く考えずにただただ、感動を伝えただけだった。
 そして子どもたちを見ながら私自身、これで良いのだと思えた。疑問だらけ、違和感だらけだから、面白い。それと向き合ってみよう。

 今思えば、これが私の教育者としての原点。子どもたちの自発的な学びはここにある。

思考停止を止める

 私たちはこの社会の中で、「ルールに従う」「上司に従う」「先生に従う」「伝統に従う」ということを強く言われてきた。そしてその初歩段階で「どうして?」という疑問は置いてくる様に強烈にトレーニングされてきた。それは、「思考停止」を意味する。
 経験者から言わせてもらうと、「決まりだから守れ」という乱暴な言葉に立ち向かい続けることは精神崩壊に繋がる。それ程トップダウンの仕組みに人々を取り込む流れは勢いよく渦を巻いて、容赦無く人を巻き込んでいく。

 年を重ねていくと、不思議と私と同じ考えの人が増えてくることに気付く。思考停止のトレーニングによって堰き止められていた「自分の肌感」「自分の想い」が年を経るに連れて溢れ出してくる人が一定数いる様だ。そんな人と話していると、とても喜ばれる。私の様な存在が面白いのだろう。でもそこで気になるのは、想いはありながらもそれをどう表現して良いか、わからないのだ。そこから生まれるものを産み出す手前で諦めてしまう。ただ自分の想いをこの小さな輪の中で小さな声で語るので精一杯。
 改めてこの国の人々を巻き込む「思考停止」の渦の大きさと深さを知って怖くなる。少なくとも子どもたちをこの渦から引き上げたい、自分の心の声を聞いて自分らしく生きていける人たちを育てたい、そんな想いがどんどん膨らんでいく。思考停止の停止だ。

どうして?と向き合う

 そんな想いを実現する場が、家庭の中と自分の教室の中に出来た。私は子どもたちの「どうして?」を一緒に考えようとした。そしてその「どうして?」をもう少し掘り下げて自分でも理由を考えてみる教育を実践した。子どもたちから出てくる言葉やアイデアはどれも光り輝いている。こんなアイデアを封じ込めて普段過ごしているのかと思うと、もったいないと思う程。
 私のいる場所では、子どもたちは意見を言うのが当たり前。その関係を作るために、私は教室ルールを一つ一つ丁寧に説明した。子どもたちがその理由を忘れて尋ねてきたら、何度も説明をする。「質問はいつでも何度でもして良いからね。その度にちゃんと答えるから。」と約束をする。
 毎週同じことを聞いてくる子がいる。でも全然OK。その子からは毎週他の新しいアイデアをたくさん聞くことが出来る。人の意見を馬鹿にしていた子たちには「自分が自分の意見を言いやすい環境を作る『ために』人の意見も大切に聞こう」と伝える。時には私が「汚い言葉を使って欲しくない」など、お願い事を伝える時にその意味を考えてもらうこともある。不思議と子どもたちが考える理由は私が言葉に出来なかった想いをしっかり汲んでいて感動することがある。

 「どうして?」を一緒に考えてくれる人、また考えるきっかけを与えてくれる場所は、今後ますます必要になってくるだろう。
自分がなぜそれをしているのか、それを考えることは自分の人生を豊かにする。それを伝えていきたい。
 悲しいことに私の世代は「思考停止」世代。学生時代などそれなりに楽しくうまくやってきたであろう友人たちが、精神的に病み始めた。今まで封じ込めてきた「自分」が噴出して行き場のない感情となって漂っている。そして誰も教えてくれないその答えを今、探し続けている。

 「誰かに黙って従うこと」ではなく、自分が自分らしく人生を全うすることにフォーカスして、人を育てていきたい。

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