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能登半島地震の5時間前に聞いた御言葉
はじめに
長い間、主日礼拝の書きおこしをnoteに投稿することをサボっていました。けれど、今年の元旦礼拝で聞いたこのみ言葉をいま読むと、本当に主は共におられるなぁ、と思ったのでこのタイミングですが、投稿します。
御顔こそ、わたしの救い(詩編42、43編)昨日の主日礼拝のあと、逡巡をした。祈りの中で詩編42編、43編にたどりつき、御言葉を取り次ぐことにした。この鹿は、緑豊かな川のもとで、水を求め
東京五輪開会式:小林賢太郎さんの解任は、釈然としない
小林賢太郎さんのファンです。ファン歴は20年くらいですが、ラーメンズ、KKP、ポツネン、すべての作品はチケットを購入して交通費を使って劇場に観に行きます。数年前からは、映像クリエイターのつながりで石川県でも公演が行われるようになったことが、本当に喜ばしい事でした。(毎回のアンケートに、金沢公演を!と書き続けてきたので)DVDや戯曲集なども発売されているものは全巻揃え、手提げやノートなどのグッズも愛
もっとみる律法の役割(ローマの信徒への手紙7章7節~14節)
今日の聖書の箇所は、律法と私たちの関係を明らかにする箇所である。律法によらなければ、私たちは罪を知らなかった。神様ご自身がイスラエルに与えられた律法。その最たるものは十戒である。出エジプト記の20章には、十戒がある。これが憲法にあたるもので、そのあとに基本法にあたる、22節以下に英々と出てくる。私たちが聞くべき、神の戒めであった。
出エジプト記 20:1~17
これがまさに十戒であった。
出
いかに多くの罪があっても(ローマの信徒への手紙5:15~21)
何度も繰り返しているが、これはパウロが今から2000年前に、ローマにいる信徒にまだ会っていない人たちに向かって書いた自己紹介の手紙である。ローマの信徒というのは、ユダヤ人のことであり、旧約聖書の律法に厳格に生きていた人たちである。幼い時から旧約聖書にしたしみ、暗記し、毎週の信仰生活を厳格に守り、律法を忠実に守り続けてきた人たちに、同じように歩んできたパウロが、キリストに出会い、キリスト者となったパ
もっとみる天からの神の怒り(ローマの信徒への手紙1:18~23)
パウロはローマに行く前に手紙を書いた。イエスの十字架と復活についてすでに聞いていると思うが、わたしは福音を恥としない。その福音は、信じるものすべてに救いをもたらす神の力だ、と書いた。その解説、論述が今日からはじまる。
神が全能を発揮することなく、愛する神の子、イエスを見捨てられたのが十字架である。クリスマスの日に生まれ、多くの奇跡をなし、この方こそ救い主だとされた方が、見捨てられていく。これが
救いをもたらす神の力(ローマの信徒への手紙1:16~17)
今日から、ローマの信徒への手紙の本論である。これまで、1章1~7節について、何度も御言葉に耳を傾けてきた。ほとんどが、1節と7節に集中して基本を抑えてきた。今日から本論であり、伝えたいことの結論である。その解説が18節以下に入る。だから、ローマの信徒への手紙には何が書いてあるかと聞かれたかと言われれば、1章16節を示せば良い。17節は、それを補完するものである。
福音はユダヤ人をはじめ、ギリシ
あなたがたを覚えて祈っている(ローマの信徒への手紙1:8~15)
1章1~7節について、何度も御言葉に耳を傾けてきた。ほとんどが、1節と7節に集中して基本を抑えてきた。そして、今日のローマ訪問の願いの箇所に入る。ローマにいるキリスト者に向けて書いていると思ったら、この言葉がわからないだろう。「ローマにいるあなたがたにも福音を告げ知らせたい」と。使徒言行録の19章にエフェソでの騒動について記されている。
使徒言行録19:21~22
パウロはこのようにして、
イエスの時(ルカによる福音書22:47~53)
今朝は、この七尾教会が属している北陸連合長老会の交換講壇である。わたしは、高岡教会の牧師の風間である。ハイデルベルク信仰問答の問い37~39にもとづいて説教をしている。余談だが、七尾とはたいへん関係が深い。学生時代に東京神学大学のとき、夏期伝道実習で1ヶ月ここに滞在した。東神大を卒業して、岡山に赴任したが、その後高岡教会に赴任した。先日の入札にも理事として立ち会った。神様からの機会を与えられてい
もっとみる歴史を通して語られる神(使徒言行録13:13~25)
知識として持っておきたい。使徒言行録13:14から、礼拝についてみておく。私たちは、毎週のように、このように七尾教会で礼拝を守っている。日曜日に礼拝を守っている。そういうものだろう、ということを思っているかもしれない。ほかの教会の礼拝に出たことのある人は、教会ごとに特徴や違いがある。使っている讃美歌や聖書でも、説教者でも。この先生と交わりながら御言葉を聞いていくとよく分かるというタイプの先生もいる
もっとみる選び出され、召されて(ローマの信徒への手紙1:1~7)
ローマの信徒への手紙の最初の挨拶の部分の3回目である。先週は、神の福音というところに光をあてて、耳を傾けた。聖書の本質を知るために、どうしても知っておくべき「神の福音」について、まとめて聞いた。ローマの人々に書いた手紙のなかで、パウロは自分のことを「キリスト・イエスの僕」であり、「選び出され、召されて」使徒となったと書いている。選び出され、というのは、自分の願いではなかったということである。召さ
もっとみる神の福音のために(ローマの信徒への手紙1:1~7)
先週からローマの信徒への手紙に耳を傾けている。最初にあいさつがある。あいさつは、単純で、1節から7節に飛んで「キリスト・イエスのイエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、神に愛され、召されて聖なるものとなったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように」である。
この神の福音について、パウロが解説を始める
キリスト・イエスの僕(ローマの信徒への手紙1:1~7)
約2年間、耳を傾けてきた使徒言行録が先週で終わり、今週からはローマの信徒への手紙である。この最初となる1章1節~は、重要な箇所であるため、数回にわたってここから御言葉に耳を傾ける。
聖書は一人の人物が書いた書物ではない。編纂されたものである。聖書の最初の記述は、紀元前8000年頃が一番古い。紀元後約200年までの約8200年分がこの聖書のなかに収められている。旧約聖書39巻ある。新約聖書には
少年イエス(ルカによる福音書 2章41節~52節)
たくさんのことを同じフレーズで繰り返しお話してきたことがある。たとえば、クリスマス物語は、マルコとヨハネにはない。マルコには、クリスマスも復活も記述されていない。しかし、マタイによる福音書には、クリスマス物語のあと、少年イエスの記述はない。ルカによる福音書は、クリスマス物語のあと、少年イエスについて書かれている。
ルカによる福音書をふりかえって見てみると、1章4節までは、献呈の言葉である。5