神の福音のために(ローマの信徒への手紙1:1~7)

 先週からローマの信徒への手紙に耳を傾けている。最初にあいさつがある。あいさつは、単純で、1節から7節に飛んで「キリスト・イエスのイエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、神に愛され、召されて聖なるものとなったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように」である。

この神の福音について、パウロが解説を始める。2節以下である。

ローマ1:2~7

この福音は、預言者を通して約束されたものである。この福音は、御子に関するものである。この福音は、聖なる霊によるもの。この福音は、異邦人を信仰による従順へと導く。この福音は、神の福音である。

ローマ15:19~

キリストの福音をあまねくのべ伝えた。1章では神の福音、15章では、キリストの福音と呼んでいる。そして、この福音は、預言者を通して約束されたものであると語っている。そもそも福音とは一体なのか。ゴスペルソングというのがある。ゴスペルとは福音である。ゴスペルソングが福音そのものなのである。ざっくり言ってしまえば、「よきおとずれ」である。幸いなこと、すばらしいこと。それが福音である。4つの福音書があって、イエスキリストの生涯があって、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書である。よきおとずれとは、何かということである。基本的なことがらを理解しておきたいのである。福音とは何かということである。
 2節に、神がすでに聖書の中で預言者を通して約束されたものだと書かれているが、旧約聖書には福音という言葉がほとんど使われていない。イエスキリストを指さしているものである。福音を知るには、やはりここに立ち返る。

創世記12:1~3

 地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。今日は、この言葉をしっかりと受け止めていきたい。神様が歴史の中に介入してくるのが出エジプト記の12章1節からであり、聖書の中で外すことのできない箇所である。あなたを祝福する。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う。目的があった。祝福の源となるためである。神様から特別扱いされることになったのは、地上の氏族は、すべてアブラハムによって祝福に入るからである。祝福とはなにか。
 祝福をするというのは、日本語なので、結婚式のときに「おめでとう」というときも祝福という意味である。そもそも祝福ということには、あなたを決して見捨てないという意味がある。祝福の祈りをするというときに、自分にできないことを神様に委ねていく。わたしが祝福とするということは、神の祝福を祈るのである。どんなことがあっても共にいてくださる。それを願うのである。
 わたしたちがよく間違えてしまう事柄を申し上げる。それは、この世界が特別にいいことがあったときに祝福であり、悪いことがあったときに呪いが与えられるという発想である。普通のときは普通で、祝福と呪いは特別のときに使われると思っている。そう考えていると、この祝福という言葉も呪いと言う言葉も、福音もよく分からなくなる。祝福の反対が呪い、呪いの反対が祝福である。この世界がどのような世界として描かれているか、それを創世記で聞いてきた。歴史的事実ではないが、物語のなかでこのように描かれている。アダムとエバが、エデンから追放されるときの言葉である。

創世記3:17~18

おおらかな神話の形を借りた、この世界の現実について語る。この世界がどんな世界なのかを神話の形で語ってくださっている。大切なのはメッセージである。17節後半に、おまえのために、土は呪われるものとなった。とある。神様の言葉を忠実に守ろうとしなかったアダムに、神の前に罪なるものとして生きるものに。アダムとエバも死ぬものとして定められていない。神は、土は呪われるものとなった。おまえは、塵に帰ると語られた。創世記の学びをしていくとき、アダムとエバの物語を知るときに、この世界が神によって作られたが、この世は神によって祝福されていない呪われたものとなっていることを知っていなければいけない。死が紛れ込んでいる。この世界に本来、死はなかった。エデンの園はそのようなものであった。神のまえで罪を犯した存在は、この世界が呪われるものとなり、そこに死が紛れ込んでくる。知っておかなければない。この世界は、かみの祝福に満ちているものではない。だから、創世記12章があるのである。だから、神は歴史の中に介入されたのである。この呪われている世界が、祝福のもとにない世界が、神の祝福のもとに回復されなければならない。神がどんなときも一緒にいて、神が祝福している世界として回復すると神自身が語られたのである。
だからイスラエルは祝福の源の役割を果たしてきた。普通の状態があって、祝福と呪いがあるのではない。祝福のない世界は、神の呪いの世界そのものだったのである。

ローマの信徒への手紙6章は、とても大切な箇所である。

ローマ6:22~23
いきつくところは、永遠の命です。呪いの中にあるとき、死は必然であった。しかし神の祝福の中にあるときに、永遠の命が与えられる。アブラハムの前で、神様が語ってくださった祝福は、この世界が神によって呪われている状態から、神に祝福されるようになる大いなる転換期であったのである。
福音主義連合の説教を書いていたときに、それを朗読したことがあった。幼稚科を担当している。一本の原稿料が500円。4本で2000円である。その説教を書いていて、挫折もしている。子供たちの聞くレベルだと思って書いているが、他の先生方の説教がやたらに難しい。たまたま先日送ったものが、今日、朗読するとよくところであった。使徒信条の「罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命を信ず」というところである。
 神様はこの世界をつくられました。支配しております。何でもできます。できないことはありません。命もつくってくださいました。一番大切です。それなのに、はいこれでおしまいと、命に終わりのときを与えたのである。大切な命が終わって、死ぬと言うのは本当です。私たち人間も必ず死ぬのです。小さいときに、教会学校で命は大切です、命は神様のモノですと聞きました。そんな大切な命を、なぜ神様は死ぬことにしたのだろう。そんなに大切なら、死ぬことにしたのだろう。変なの。命が終わりにならなかったら、神様の気持ちを考えなくても生きていられるのですから。かみさまの気持ちを考えなければいけません。かみさまの気持ちを考えること。ごめんなさいが言えること。いっかい死ぬことに決めたのでした。神様のことを考えて生きる良い子に終わりにならない命をプレゼントすることに決めました。
 教会の幼稚科の説教は、ここで終わり。後半は後半だが、大切なのは前半である。殺すなかれ、なのである。そうおっしゃっている神様が、命を終わらせようとしているだろうか。この世界がしゅくふくに満ちていないからである。神様の目からみたら、神様の御心に適わない人がいてはいけない。だから、この世界に祝福の源を与えたのである。その人自身が自分の力で立派になるのではなく、わたしは神様の御心にしたがって生きることなどできないと悔い改めることによって、しゅくふくに入る。これが、旧約聖書で預言されてきた福音であった。福音とは何か。呪っておられたこの世界が、神の祝福に大転換することである。そのことをパウロはのべつたえようとして、このローマの信徒への手紙を書いている。喜ばしい姿として、神様が私たちの神となってくれて、わたしたちが神の民となる、あたりまえの世界が描かれている。それが、この箇所である。

ヨハネ黙示録21:1~8

これが最終的に、神様に私たちに預言しておられることである。人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや市はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。これが、福音である。
わたしたちは、神の呪いの中にあった生活から、神の祝福の中にある生活へと変えられていく。どんなことがあっても守ると約束してくださっている。宝の命として作ってくださった命を取り上げることはしない、と約束してくださっている。これは、神様が最初から描いていた世界をイエス様の十字架と復活によって成し遂げてくださったのである。
(2017年8月20日主日礼拝 釜土達雄牧師)

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